「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」(Ⅰコリント13:4)
これはテレビでも報じられていたニュースなのですが、消防署の職員が消防車でうどん屋さんに乗り付け、制服のままうどんを食べていたのを見た客が119番通報したそうです。「勤務時間中にうどん屋に消防車で来るのはけしからん」ということだそうです。このクレームに上司が詫びたという報道を見て、何かやりきれない思いがありました。
朝から出動があり、午後も行事があったため、食事をする暇もなく、やむなくうどん屋に行ったということです。消防署で働く人は空腹のまま働かないといけないのかと思ってしまいます。
また、救急車の隊員がコンビニに立ち寄り、缶コーヒーを飲んでいたところ、救急車の中で飲食しているという119番通報があったそうです。この隊員も朝から出動が多く、飲み食いできずに仕方なくコンビニで缶コーヒーを買ったそうです。この2つのニュースを見て、日本の社会にある不寛容さを見る思いがしました。
これは熊本地震の時に自衛隊の隊員のインタビューで聞いたことですが、自衛隊で働く人は被災者の人々にできるだけ温かい料理を食べていただけるように炊き出しをしています。しかし、自分たちは決して温かいものを口にすることはなく、ほとんどが缶詰を食べているし、食べているところを人に見られないようにしているというのを聞いて、私たちの知らないところでご苦労しておられると感じました。
外国では警察官や消防の方々にコーヒーを差し入れ、市民が食べ物を提供するところもあるそうです。
私がアメリカで研修を受けていたとき、1人の牧師はドーナツがとても好きで、私をドーナツ屋さんに連れて行ってくれました。この方はとてもジョークの好きな人だったのですが、店員に「自分は刑事だ」というのです。
なぜ、そのような冗談を言うのか聞いてみると、警察官はドーナツが半額になり、コーヒーは無料サービスだということでした。店員も冗談を理解していて、警察バッジがないから、半額にできませんが、コーヒーはサービスしますと答えていました。
制服の警察官がお店に出入りしますと、防犯上の効果があるし、社会のために奉仕している人々に感謝の気持ちを表すために半額にしているのだと店の人は説明してくれました。
あまり行き過ぎたジョークは批判されるかもしれませんが、ある程度の軽いジョークはその場を和ませる効果があります。社会の中に寛容の精神があると、ジョークを受け入れる余裕が生まれるかもしれないと思います。
私は自分が牧師だからという理由で、自分や家族を窮屈な状況に追い込んでいたのではないかと反省することがあります。人並みにレジャーに出掛け、生活を楽しむことにブレーキを掛け、結果的に家族に迷惑を掛けていたのではないかと思います。
また、「牧師は清貧に甘んじ、高潔な生き方を目指すものだ」という周囲のプレッシャーも少なからずあったように感じます。このように自分を追い詰める生き方をしていると精神的に余裕がなくなり、「岩のような心をしている」と指摘を受けたことがあります。
「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」(Ⅰテサロニケ5:12~14)
もし、自分の失敗を通して助言することが許されるのであれば、もう少し家族を大切にし、子どもたちの人格を尊重し、生活を楽しむ余裕を持たれることをお勧めしたいと思います。若いときは周りの人々の助言もなかなか受け入れることはできませんでしたが、家族との思い出が何物にも代えられない宝物であることが今はよく分かります。バーンアウト(燃え尽き症候群)に陥らないために、自分自身に寛容であることも大切だと思います。
成熟した社会とは、「すべての人に対して寛容であること」ではないかと思います。主なる神はどんな時にも私を愛し、寛容を示してくださいます。感謝します。
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