「・・・民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。『私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。・・・エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。』・・・そこで、モーセとアロンは、・・・全集会の集まっている前でひれ伏した。・・・ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは・・・次のように言った。『私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。・・・主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。・・・主が私たちとともにおられるのだ。・・・』」(民数記14章1~9節)
世間は森友学園のニュースで持ちきりです。しかし、万が一総理大臣から寄付があったとしても、法律的にはなんの問題も無いので、実はわざわざ国会で証人喚問をする必要などないのです。それでも、野党やマスコミからは総理大臣批判の格好のネタとしてことさらに取り上げられ、総理夫人との関係などが長々と報道されています。
そんな話題を聞いていると、世の中というのは、人の都合によって真実がねじ曲げられているものだと感じます。国政的には、北朝鮮のミサイルをはじめ、討論すべき問題は山積しているのですから、国会らしく筋の通る論議をしてもらいたいものです。
と同時に、つくづく同じ状況や同じ出来事、同じ事実に基づいていても、人の話というのはどこまで変化してしまうのだろうと思います。同じ出来事・同じ事実にもかかわらず、私たちは本当に神の御声を聞いているでしょうか。人の言葉や理屈ばかりで、神の御言葉を聞き逃していないでしょうか。この箇所を通して確認しましょう。
これは、前の13章から始まる、イスラエル人がモーセに導かれてエジプトから大脱出を果たした出エジプトの時の物語です。脱出後、荒野の道を進んで、ついに約束の地カナンを目前にしての出来事が記されています。
1. 私たちには限界があることを認めよう
13章でカナンに行った12人の偵察隊の中で、良い地だったからすぐに進んで行こうという意見と、そこの住民が強そうだったからやめよう、という意見に分かれます。同じものを見ていながら、人々の意見は分かれたのです。私たちの力や判断には常に弱さや限界があります。しょせん、人の知恵は人の知恵であって、神の知恵にはかないません。そのことをクリスチャンとして認めましょう。
2. 人の思いではなく神の思いを探ろう
8節に、「もし、私たちが主の御心にかなえば」とあります。私たちがいつも大切にしなくてはならないのは、単に私たちが人間としての算段での損得勘定や好き嫌いや感情ではなく、神の御心を受け止めることです。
神のご計画は、ただイスラエル人をエジプトから荒野に向けて脱出させるだけではなかったはずです。エジプトから脱出すると同時に、イスラエル人のために神が備えた地カナンへ導くことでした。
神は、私たちに語られた御言葉を簡単に曲げるようなお方ではありません。神があなたに夢や目標を与えてくださったら、神の御心はずっと変わらず、あなたを導いてくださるのです。
3. 神が共におられる方向に人生の選択を
私たちは、神の思いか人の考えなのか、それをよく吟味した上で、神の御心をちゃんと見極め、しっかりと信仰を持って選択しようではありませんか。この時、イスラエル人とモーセはどうなったと思いますか? 恐ろしいことに、実はみんな失敗したのです。
本当はヨシュアとカレブが言ったように前進しておけば、約束の地カナンに入れたはずでした。しかし、進路を変えてしまい、カナンに入るのに40年を無駄にしたのです。
聖書の御言葉は格好いいものばかりではなく、大成功した物語も失敗した物語もそのまま書かれています。この箇所から学び、さまざまな意見の中から神の御心であるものをちゃんと選び取り、決断できる人へと成長しましょう。
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