「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。・・・ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい』と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」(使徒3章1~8節)
聖書の神の御言葉に立って、今も生きて働かれる神の恵みに触れる、真の信仰の世界に置かれていることを感謝し、今日は使徒3章「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言った、ペテロ、ヨハネに注目してまいりましょう。
2千年たった現代では、ペテロは教会の土台となった偉大な大使徒、ヨハネは福音書を書いた偉大な愛の使徒と言われますが、前章にあるように、この時のペテロとヨハネは、初めて聖霊に満たされ、大胆に人の前に立つことができるようになった直後の出来事です。
1. ないものはないという事実を認めよう
旧約時代の習慣に従って、2人は午後3時に祈りをするため、神殿に上っていきました。美しの門を通り過ぎるとき、生まれつき足のなえた、物乞いをしている男に施しを求められました。
ペテロはお金がありませんでしたので、金銀は私にはない、ごめんね!とあっさり言っています。私たちは人と自分を比較して、私は持っていない・・・みじめだから、私の人生には恵みが来ない、とすねてはいけません。
人生の長さも、個性も文化も、社会のありさまもみんな違います。単なる見かけや条件を横並びにすることは、幸福の要因ではありません。みんな同じでないと許せないという、変な民主主義に陥り、ないものねだりをして人生をみじめに終わらせてはいけません。私たちは神様の前に祈るとき、自分の足りなさや弱さを認めて素直に祈ろうではありませんか。
2. 与えられているものを認め、感謝しよう
今、与えられているものを落ち着いて見渡してみましょう。共に神を礼拝する兄弟姉妹のいること、ワクワクして来られる素晴らしい教会があり、一緒に祈り合える神の家族や愛すべき家族、あなたの能力、個性があります。
新しい使徒としての入り口に立ったばかりのペテロとヨハネが立派だったのは、お金はないけれど、卑屈にならなかったことです。彼らは「ナザレのイエス・キリストの御名によって歩きなさい」という御名の力、自分に与えられている信仰の恵みがあると認め、それを素直に引っ張り出しました。
信仰は、自分だけでそっと持っていればよいというものではありません。自分は信仰を与えられていますと、告白しようではありませんか。
3. 持っている信仰を用いよう
今回のインド伝道でも、多くの人が癒やされました。体中が痛んでいた青年や、悪霊に取り憑(つ)かれ、地面を這い回っていた少女が解放されたと、感謝の証しをしてくれました。
私に特別な超能力がある訳ではありません。一生懸命、御言葉を語り、祈りますが、人としてできることはそこまでです。しかし、不思議なことに、イエス・キリストの御名で祈ると、神の奇跡が現されるのです。
御名による祈りを、伝道師や牧師の特権にするのではなく、あなたも自分の持っている信仰で祈ってほしいのです。イエス・キリストの御名による祈りを、自分の病や、体の弱っている状況に対して用いるのです。そうすれば、イエスは必ず、あなたの願い、祈りに答えてくださることを体験できます。
主は「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と言ってくださっています。信仰者として、イエスの元に行って祈ること、与えられた信仰を用いて、信頼して願うことを忘れてはいけません。
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