「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:6~8)
日本での祈りに支えられ、インド伝道は大変祝福されました。皆さんのお祈りを心から感謝しています。4日間の夜の野外集会を中心に、到着の翌日から、牧師セミナーや女子高での祈り、複数の教会での聖日礼拝、孤児院訪問、TV収録、村の教会の献堂式や家庭集会など精いっぱい働かせていただきました。
野外集会は、ヒンズー教徒からの迫害が激しく、直前に場所が変更されました。そんな中でも、聖霊の臨在により、主イエスが働かれ、聖書の約束通り病の癒やしや悪霊からの解放が現されました。会衆の前でも生き生きとした証しがされ、何百人もの人たちがイエスを信じ神の子とされ、生まれ変わって新しい人生を歩み始めました。主は今も生きて働いておられます。
私たちが、日本のみならず、世界中の人々にイエスの福音を宣べ伝えようとするのは、単に病気の癒やしや問題の解決、たたりや呪いからの解放という目先のことだけでなく、全ての人が救われて命の質、人生が変えられるためです。
最近の世の中では、自由に好きなことをして生活が平安で楽しく、他人に迷惑をかけなければそれでよいと言いますが、果たしてそうでしょうか。それでは、神から期待されている生き方から逸脱し、罪深い生き方に墜ちてしまいます。トリベロールには、もう何年も通い続けていますが、たくさんの人たちが、自分も家族も救われ本当に喜んでくれています。イエスを信じる信仰の恵みは、一過性の現象ではなく、確実に実が残り、永遠の命にまで人々を導くものであることを心から感謝します。
自分の立場を守るためには、たとえ家族であろうとも殺してしまう者もいれば、一方では、弱くて役に立たない罪深かった私たちのために死んでくださった方、イエスがおられ、このキリストを通して天の父なる神の愛が現されているという2つの事実を確認しましょう。
1. 罪人であり、今も弱さを引きずる者
私たちは、不敬虔で弱く未完成です。その罪が生み出した弱さを引きずった者です。自分の力では、罪との関わりを断ち切ることができなかった者です。「聖書」とは「聖い本」と書きますので、人を愛し、人生を尊ぶような美しい言葉で溢れていると想像している人もいます。しかし、聖書の中には、汚い人間の話題もたくさん書かれています。私たち人間は、どれほど立派であっても罪とは無関係ではいられないからです。人である以上、私たちの心の中には罪があります。そして、罪が取り除かれない限り、私たちの魂は、永遠の滅びに至るのです。
2. 身代わりとなって死んでくださった救い主
罪人である私たちのために、身代わりとなって十字架で死んでくださった救い主がいることを感謝しましょう。しかも、私たちが自分の罪を自覚する以前に死んでくださった方、一見無駄死にのような、イエスの身代わりの死を無駄にしない方法が1つだけあります。それは、これを自分の罪のための贖(あがな)いの死であると認め、自分の心にこの方を救い主として受け止め、イエスの救いをいただくことです。
この3月も、キリストの愛と喜び、力、命をいただいて歩んでいこうではありませんか。
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