「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。・・・夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。・・・たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。・・・ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません』」(ヨハネの福音書13章1~8節)
新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書では、それぞれイエスが十字架にかけられる前夜の話が記述されていますが、ヨハネの福音書だけに記録されている出来事があります。それは、弟子たちとの最後の食事(最後の晩餐)が終わる頃、イエスが立ち上がり、たらいに水を張り、手ぬぐいをもって弟子たちの汚れた足を洗われたという出来事です。突然のことに弟子たちが戸惑っている中で、イエスはちゅうちょすることなく彼らの足を洗われました。
イエスは、十字架による死を前に、自らの力だけでは救われ得ない私たちに対する、救い主としての愛をとことん行動をもって示されたことを喜びたいと思います。神の側からのつながりを、私たちは忘れてはいけません。今朝は3つのことを確認しましょう。
1. イエス自ら率先して私たちと関わる
私たちがイエスとつながろうとする前に、イエスが自ら率先して私たちにはとてもできないような方法で関わりを生み出されたことを感謝したいと思います。最後の晩餐の後に、イエスが突然弟子たちの足を洗い始められたこの出来事を、物語として読み通すことはできます。しかし、実際にこんなことが起こったとしたらどうなるでしょう。
例えば、あなたが一番のゲストに招いた方が、食事が終わる頃に洗面器を持ってきて、あなたの前にひざまずいて足を洗い始めたら・・・。弟子たちにとってイエスのなされたことは特別なことでした。
私たちがイエスのことを信じて一生懸命イエスと結びつこうとするから、そこにつながりがあるというだけではなく、イエスが自ら立ち上がって私たちと関わりを持とうとしてくださっているのです。
2. イエス自らが行動される
イエスは、単に弟子たちに声を掛けて親しくされただけではなく、弟子たちの汚れた足を洗ってくださったのです。イエスは卑しく思われる行動を自ら進んでしてくださいました。
シモン・ペテロの順番になったときに、弟子たちの中で年長者であった彼は思わず言いました。「あなたが私の足を洗われるとはどういうことですか? 先生なのだからそんなことをなさるべきではありません」と。
しかし、イエスはペテロが予想もしていない返答をされました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」
イエスは、十字架にかかって死ぬことと、そこに含まれる意味を教えるために、行動による例えとして弟子たちの足を洗われたのでした。私たちが自分で洗い清めることができない汚れをイエスの血で洗い清めてくださった、この恵みが実現していることを感謝しましょう。
3. 私たちとのつながりを完成する十字架
イエスの十字架の死により、神と私たちの間には何によっても切り離せない、本物のつながりが生み出されたのです。不完全な私たちが神とつながることができるのは、私たちの努力ではなく、神の側からつながろうとしてくださる恵みの御業だということを忘れてはいけません。
ヨハネの手紙第一4章10節には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために御子を遣わしたと書かれています。神と私たちとがつながるためには、神が私たちを愛し、御子イエスが贖(あがな)いの代価として死ぬ以外なく、そのイエス・キリストの十字架の愛をあなたも受け止めるべきだと聖書は語っています。
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