「今、キリスト教の公共的役割を問う―日本宣教500年?」というテーマで14日、キリスト教連合会定例講演会が日本聖公会牛込聖公会聖バルナバ教会(東京都新宿区)で開催された。日本キリスト教連合会は、カトリック中央協議会、日本聖公会、プロテスタント諸教派によって運営されている、日本国政府への対応を行う団体。講師を務めたのは、東京基督教大学大学院教授、共立基督教研究所長の稲垣久和氏(日本基督改革派東京恩寵教会員)。
講演のキーワードは「公共圏」。それは、「異質な他者が多元的・対話的に共存して、人格的な交流を持ち、私から公へと媒介し、ダイナミックに発展する領域」のこと。教会はかつて西洋ではこの公共圏に属していたが、日本では教会が、家族などと同じく、プライベートな「親密圏」に属しているという。稲垣氏は、「この現実をキリスト者は知り、コミュニティーの意味を考えなければならない」と話す。
「初代教会では全てのものを共有していたように(使徒2:44)、もともとキリスト教はコミュニティー形成を目指した生き方を追求してきた。個人主義ではなく、愛をもって共に生きることを教えてきた。その一方で、原始共産制と呼ばれるこの光景は、修道院以外では継承されなかった」と稲垣氏は指摘する。
続いて、日本宣教の特徴として「和魂洋才」を挙げた。キリスト教はいつまでも日本の地に根付かない「洋才」(西洋の宗教)のままであり、洋才と分断したものが「和魂」(日本的霊性)だという。
「宗教改革以降、ヨーロッパでは、資本主義、近代科学、民主主義においてキリスト教は大きな役割を果たしてきた。しかし日本は、ザビエルが来日して以降の500年弱の間、キリスト教の影響を受けていない。それは和魂と洋才の分断のゆえではないか。分断のない包括的な世界観としてのメッセージが語られねばならない。結局、日本の大衆に根をおろしたのは、キリスト教ではなくマルクス主義だった、とは故加藤周一の弁。大衆の中に根をおろさなければ、力にはならない」
そこで稲垣氏は、大衆に根差した賀川豊彦の働きについて紹介した。1920年代、賀川は、貧困問題や労働運動を通してマルクス主義とも格闘し、大衆に密着した形の宣教スタイル「神の国運動」(1928~33)を展開する。
イエスが宣教を開始したとき、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言ったが、賀川はこの「神の国」を大地に根差したものと捉えていた。そのため、労働運動などの社会運動は全て、神の国の実現のためだった。また、賀川の考える神の国とは、「神の愛によって皆が幸福になる国を目指す」ということで、それはキリスト者に限らず、全ての人を対象とする。「この賀川の考えに沿えば、イエスの神の国の教えとは、全ての人々が模範にしてよい普遍的な教えだ」と稲垣氏は語る。
続けて稲垣氏は、山上の説教で「平和を実現する人々は・・・神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と語られていることや、「善いサマリア人」(ルカ10章)もユダヤ人の敵であったことを例に挙げながら、「聖書ではクリスチャン、ノンクリスチャンに関係なく、神の御心を行う人が起こされることが、神の喜ばれること」と話した。
賀川にとっては、イエスの十字架の死と復活に基づく福音のリアリティーを地上において実践していくことが信仰の在りようであり、生活協同組合などを立ち上げたのも、持ち物を互いに共有することがキリスト教的な価値観に基づくと気付いたからだ。また、「神の御心に共鳴した人が集まってくる贖罪(しょくざい)愛に生きる教会は、ノンクリスチャン、無宗教、異教徒ともバッティングを起こさない」とする賀川の教会論こそ、地に根を張ったキリスト教ではないかと話した。
稲垣氏は、「今のキリスト教会は壁を作っているのではないか」と問い掛け、もし「現生安穏、後生善所」で満足せず日本社会を変えたいと思うならば、「人口の1パーセントのキリスト教徒だけでは、大きな変革を起こして、市民的公共性を確立することはとてもできない」と訴える。
稲垣氏は、社会変革の可能性を、賀川の友愛革命と呼ばれる運動と贖罪愛に生きるキリスト教会のつながりに見る。「労働組合、生活協同組合、農協協同組合、NPO、NGOといった公共圏の領域に入る相互扶助組織と連携することで、日本の総人口の3分の1に近い人々と協力することができる。こういった公共圏の中間集団を支援し、橋を架けるといった働き掛けが、現代のキリスト教会の公共的役割ではないか」と締めくくった。
日本キリスト教連合会の次回の定例会は、4月18日の臨時総会の中で開催される。