昔、神学校で学んでおりました頃、チャペルの時間に聞いた話で忘れられないものがあります。それは、ある牧師が自分の教会の信徒を入院している病院に見舞いに行ったときの話です。
その信徒は長い間、教会の柱のような存在で、信仰者の模範のような人生を送ってきた人でありました。教会の諸活動には常に率先して参加されて、他の人々の希望となるような生涯を送ってこられた方でした。
ところが今は高齢となり、体も次第に弱ってきて、同時に精神的にも内向きになってきておりました。かつての快活な姿は見る影もなくなっておりました。体の衰えと同時に精神も衰えて、そのために、この信徒は自分の信仰は一体どうなったのだろうか、と考えるようになりました。
牧師が見舞いに行って彼のベッドのそばに腰をかけると、その信徒が内面の不安を語り始めたのです。自分はこの頃、時々、信仰を失ったのだろうかと思う時があって、本当に悲しい、考えることが暗くなり、心も弱ってしまいました、自分はすっかり不信仰になってしまいました、と内面の苦悩をありのまま牧師に語ったのでした。
その時、牧師はこの老信徒に次のように語りました。「あなたがそのように感じられるのは、自然なことであって、決して自分を責める必要はありません。肉体が弱いときは、それが精神に作用して、心も弱く感じるのはごく自然なことです。あのヨブのことを考えてみてください。彼ほどの素晴らしい信仰者でさえも、自分の体が病気にむしばまれていったとき、神様に敵対するような言葉さえ発しました。自分がこの世に生まれてこなかった方がよかったとさえ口にしています。それだけではありません。イエス・キリストご自身をご覧ください。あの極限の苦しみの時、キリストでさえ、『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか』という叫びを上げています。あなたが今の心身の試練の中で、信仰がなくなっているのではないかとお感じになるということは、まさしく、あなたの中に確かに信仰が生きているという証拠なのです」と。
なんという真実の言葉でしょうか。40年たっても忘れることができないお話です。
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