福音派は聖書そのものを信仰対象とする
前回、福音派の「聖書信仰(professing the Bible)」について言及した。とても重要な概念なので、今回もこれを再掲する。拙著『アメリカ福音派の歴史―聖書信仰にみるアメリカ人のアイデンティティ―』の中で以下のように解説している。
「福音派の歴史全体を貫く共通性が存在するとしたら、それは『絶対に正しく、間違いないものとして聖書を信じている』と告白してはばからないその姿勢である。これは論理的根拠や神学的考察によって導き出されるものではなく、聖書そのものを信仰対象として受け止める生き方である」(476ページ)
ここで大切なのは、「聖書そのものを信仰対象とする」ということである。「聖書の言葉や中身を」ではなく、「聖書そのものを」というところがミソである。聖書への向き合い方は種々様々ある。しかしその対象に論理的な立場から目を向けるか、それともアプリオリに「絶対善なる神が働かれている」と受け止めるかで、両者の見ているものが異なってくる。その一例を進化論から述べてみたい。
福音派と進化論から見たアメリカ近代史 当初は進化論こそ聖書的だった!
一般的に、福音派は「進化論」には反対である。「進化論」と「創造論」とを対置させ、後者に力点を置き、前者の過ちを指摘するというスタイルは、伝統的なもののように思われる。しかし歴史をひもとくなら、このような在り方は第1次世界大戦以降のものであって、1860年代に米国へ進化論が流入してきた当時は、全く異なった捉え方をしていたのである。
ハーバード大学(後にリベラリズム神学の牙城となる)教授であるルイス・アガシズは、「進化論は荒唐無稽」としてこれを退ける発言をした。理性と理論を重視する彼らにとって、進化論は単なるファンタジーとしか受け止められなかったのだ。
これに対して、プリンストン大学(後に根本主義神学の牙城となる)学長であるジェームズ・マコッシュは「神は進化という法則を用いて創造の業を行った」と主張した。そして当時の米国キリスト教界は、後者を「聖書的」と判断したのである。創世記1章の記述が「神の創造」と「進化」の両方を説明している、と捉えたのである。つまり、根本主義者(後の福音派)は聖書の世界観を科学的に証明する理論として、進化論をもてはやしたのであった。
この機運が一気に反転する。それは第1次世界大戦の勃発である。米国はドイツを敵国とみなしたため、ドイツ製品やドイツ文化をあからさまに批判することで、根本主義者たちは国民からの支持を得る方法を見いだし、これにまい進した。新神学(リベラル神学)と進化論は、当時ドイツから流入したとみなされていた。だから彼らはこれを徹底的に批判する方向に舵を切った。進化論と創世記1章が相いれないとする見解は1860年代から主張されていたが、1910年代ごろから人々に評価されるようになっていった。
つまりこういうことになる。1860年代から1900年にかけて、進化論は聖書を説明する理論として、キリスト教保守層の中ではもてはやされていた。しかし戦争という国家の一大事が起こると、彼らは手のひらを返したように、今度は進化論批判を始めたということである。
この話には続きがある。当時、根本主義者たちは「世の終わりが間もなくやって来る」という終末論(ディスペンセーショナリズム)を信じていた。そのため、この世は人間の健全な活動によっては救済されず、世の中を変革するのは「神の業」であるとみなしていた。そのため、政治的な運動や社会問題に対して積極的に活動することを「聖書的ではない」とみなしていた。
しかし1920年代前半に「反進化論法」がケンタッキー州に提出されると、ウィリアム・ライリーら世界根本主義協会(World’s Christian Fundamentals Association)はこの法案可決のために年に22回もの政治的集会を開き、社会変革を訴えた。これは明らかに、当時の「聖書的」範疇(はんちゅう)からの逸脱である。しかしメディアからの注目と人々の支持が集まることを知った根本主義者たちは、この運動を南部諸州へと拡大していった。
進化論論争は、国民の支持、メディアの注目を求めるキリスト教保守層の内実を教えてくれる好例といえよう。
福音派の主張は時代と共に変わる それは変節?なのか、啓示の開示?なのか
このような歴史的背景からも分かるように、福音派は時代とともにその強調点を変質させている。彼らのこのような姿勢を「変節」と取るか、それとも「啓示の開示(真理が時代を経ることで明らかになった)」と取るか。それによって評価は分かれるところである。リベラル陣営からするなら、「聖書のみ」というスローガンは時代によって左右されるものとしてしか映らない。どこまでいっても脆弱(ぜいじゃく)な主張ということになってしまう。
確かに論理的に考えるなら、進化論に対する当初の見解は誤りであったか、または「変節」したかということになる。しかし根本主義者(後の福音派)はそのような見解を持たない。過去の言動には触れず、社会のマジョリティーを支持し、時にはけん引し、そしていつしかイニシアチブをとっていく。そして「神を通して、真理がこの時代に明らかにされた」とあくまでも肯定的に自らの変化を受け止めていく。
福音派神学とリベラル神学の相克と溝
これに批判の声を上げる者は多い。特にリベラリズムを受け入れた新神学の立場からすると、明らかに論理矛盾を来していることになる。しかし、その批判がきちんと福音派には伝わらない。アカデミックに応答する福音派研究者も存在するが、結局は創造論を擁護するために、進化論者と対決する姿勢をとってしまう。福音派とリベラリズムとの相克が刻まれ、現在もこの溝は埋められていない。
リベラリズムが指摘する「変節」は、第2次世界大戦後の米国における諸問題(公民権運動、ベトナム戦争、そしてウォーターゲート事件など)にも見受けられる(詳しくは拙著『アメリカ福音派の歴史―聖書信仰にみるアメリカ人のアイデンティティ―』第4章を参照のこと)。
福音派は現実主義者であり、それが米国の「統合作用」として機能する!
しかし私はこの点に関して、決して批判的に受け止めることができない。むしろこれこそが(米国)福音派の「聖書信仰」の中心であり、その精神が健在であることは、今回の大統領選挙後のコメントからもうかがい知ることができる。80パーセント以上の白人男性福音派がトランプ氏に投票したかどうかに関しては、はなはだ疑問であるが、大統領となったトランプ氏に対して、あれほど抵抗を示していた一部の福音派が、手のひらを返したように彼の大統領就任を歓迎するコメントを発することに、私はいささかの驚きも感じない。むしろ「それでこそ福音派!」と思うくらいである。これは決して「ほめ殺し」でも「皮肉」でもない。文字通りの意味である。
このような姿勢に対する功罪はある。それは論理性を是とする者から見るなら、話の通じない輩(やから)という意味で「罪」の側面が強調される。「トランプ現象」と呼ばれる今回のうねりを「反知性主義」と位置付けることと同じメンタリティーである。
しかし「功」の部分も大きくある。それは聖書の世界観を「絶対肯定」することで、自分たちの生き方や在り方を常に安定的に保てるという側面である。これによって米国は「統合作用」を機能させることができる。トランプ新大統領が誕生し、そのことでショックを受けた者たちも論理を超えたところに信頼を置く姿勢(信仰)があるからこそ、彼を「私たちの大統領」と受け止めていくことができるようになる。すると暴動やデモではなく、「祈りによって大統領を祝福しよう」という穏健な流れが生み出される。このことの証左が11月18日付で本紙に掲載された「米フラー神学校学長らが声明、大統領選挙中の福音派による『憎しみに満ちた言動』を批判」である。まさにこちらの予想通りの声明に、出来過ぎの感すらある。
「神学論争」は争いを生むのではなく、不毛である。「変節」か否かを問うことも同様である。聖書を信仰対象とした時点で、米国のメカニズムに組み入れられることになる。そしてそれ以降、基本的にどんな困難や逆境がやってきたとしても、福音派集団はそれを受け止め、信仰的な解釈を施すことで、明日を生きる道を見いだしていくのである。
フラー神学校の記事に触発されたので、次回はフラーの歴史とそこから見いだされる福音派の特徴について述べてみたい。もちろんトランプ氏の言動についても随時掲載するので、お楽しみに。
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