ネルソン・マンデラ氏とケープタウンの3教会
訪問 2016年9月3~4日
ネルソン・マンデラ氏と教会
1918年7月18日、コーサ族の首長の息子として生まれる。メソジスト教会で洗礼。弁護士。44年にANC(アフリカ民族会議)青年部を結成し、黒人の自由を主張し続ける。52年に投獄され、90年に釈放される。91年、アパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃される。93年、ノーベル平和賞を受賞。94年、南アフリカ大統領に就任。2013年12月5日、95歳で永眠。
スイスの岸井敏牧師(元ルーテル世界連盟勤務、著書『赤十字巡礼』他)から下記の便りがあった。
「おたずねのネルソン・マンデラ氏などの件。私がLWF(世界ルーテル連盟)にいた1980年代は、アパルトヘイトの問題がくすぶりの煙から、燎原(りょうげん)の火のように、世界的な解放運動へと拡大していった時期でした。
南アにルーテル教会はありますが、信徒数65万人ほど、南アは歴史的に、イギリス、オランダの植民地時代の影響で、英国正教会系の教会、オランダ改革派の教会もありましたが、いずれも社会を動かすほどの力を持ってはいませんでした、というより、アパルトヘイトに反抗しようとすると、絶大の権力を持つ官憲によって、即座に弾圧、投獄されてしまうところに問題がありました。
丁度その頃、1960年頃に南米に起こった「解放の神学」が、20年も経ってやっと世界的に影響を広げていました。女性教職の按手、女性ビショップの誕生、エイズの問題、「ホモ・レズ」の問題などが相次いで世界的な問題となり、人間の尊厳が、性や人種を問わず見直されることになりました。いずれも1980年代のことです。
南アの赤十字社が、アパルトヘイトのために国際赤十字社連盟から除名されたのも1980年代でしたし、併せて「アパルトヘイト」への世界的な圧力が南アに向けられました。歴史的に言って、一国一社の赤十字が除名されたのは、いまだかつて南アだけです。それらが、国内の自由化闘争を外から支援する形ともなって、南アの自由化を進めたのでした。
時を同じくして、ソビエト連邦の崩壊、ベルリンの壁の撤去、東西の冷戦の終結など、一連の改革として捉えることができます。みんな1980年代の終わりごろに起こった世界的なできごとでした。
私自身はマンデラ氏との面接はありませんが、私の同僚だった近畿福音ルーテル Alf Idland 牧師がマンデラ氏の来日の時に接触があったはずです。Idland 氏は近畿ルーテルの宣教師でしたが、1982~84年とLWFのスタッフ、関西淡路大震災の後、間もなく癌(がん)でなくなりました。
また、私がLWFの頃、LWFの神学教育部のスタッフだったシブシソ・ベングー(Sibsiso Bengu)氏が、1990年代のはじめに新南アの政権で文部大臣になったことも、嬉しい記憶として残っています。
LWFは、南アの革命に際しては、その世界的なネットワークを用いて、情報を流し、現地を激励し、外からの支援を集めることには貢献したことと思っています」
カーステンボッシュ植物園
テーブルマウンテン
アパルトヘイト時代、政治犯が収容されていた刑務所島。マンデラ氏も投獄されていた。現在は島全体が博物館として観光名所となっている。1999年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
アパルトヘイト記念教会
「自分は毎日聖書を読み、子どもの名前はミカエルだよ」。ケープタウンの教会を見たいから案内をしてほしいと頼んだガイドは熱心なビリー・グラハム賛美のクリスチャン。暗誦している聖句が次々に出てくる。神様の話が止まらない。
人の姿もない草原。「アパルトヘイト時代、黒人の家は焼かれ追いやられた」と、ガイドが説明してくれた。赤い屋根の小さな教会は、人種隔離政策の歴史を記念するものかと思った。
ケープタウンのプレスビテリアン(長老派)教会
写真を撮っていると、戸口から男性が顔を出し「中に入っていいですよ」と手招きして呼ぶが、時間がないので失礼した。
ケープタウンのカトリック教会
いつくしみの特別聖年ロゴマーク。前回のイタリア巡礼とルルドへの旅でよく目にした。すぐにカトリック教会と分かった。
ケープタウンの街
ウォーターフロント
大盛況の寿司レストラン
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