北アルプス山脈を望む長野県安曇野市。少し雪化粧をした連山と澄んだ空気は、冬の訪れを感じさせながらも、心に温かな風を運んでくれる。この地の一角に、井口喜源治(きげんじ)記念館はある。華美な装いは感じられない質素な記念館だが、信濃の地に「真の教育」を築いたキリスト者がいたことを教えてくれる場所だ。
井口喜源治は1870(明治3)年、現在の長野県安曇野市穂高に生まれた。旧東穂高小学校を卒業後、旧制松本尋常中学に進学する。現在の県立松本深志高校の前身となった同校に南安曇郡から入学したのは、井口を含め数人であった。在学中に、後に「新宿中村屋」の創業者となった相馬愛蔵と出会い、無二の親友となった。また、アメリカ人宣教師から英語を学び、この宣教師の影響から、井口はキリスト教に開眼することとなる。
愛蔵は、早稲田大学の前身東京専門学校に入学。井口は弁護士を志して、明治大学の前身明治法律学校に入学し、共に長野から上京し、勉学に励んだ。しかし、井口家の経済事情は思わしくなく、さらに近隣からのもらい火による火災、父親の飲酒による浪費が重なり、井口は1年で退学せざるを得なくなった。やり場のない腹立たしさと虚無感を背負って碓氷の峠を越え、北を目指した。
一方、愛蔵は順調に学校を卒業し、その後、北海道へ渡った。郷里に帰った井口の耳にそのことが入ると、「負けてはいられない」と自分の将来を模索し始めた。
井口はその後、恩師の勧めで小学校教諭の助手をすることとなった。教師としての資格などを得ながら、県内の小学校を転任。1893(明治26)年には、妻きくのと結婚。その年の4月に郷里の穂高に戻り、愛蔵との再会を果たした。
愛蔵は上京中、牛込市ヶ谷の教会に出入りしており、内村鑑三らから直接教えを受けていた。その縁で山室軍平、津田仙、島田三郎らとも接する機会があったことを井口に話した。キリスト教会を中心に札幌と横浜で組織された「禁酒運動」にも参加するようになった愛蔵は、井口に「東穂高禁酒会に入会してほしい」と相談をした。父親の飲酒によって家計が悪化し、将来を諦めざるを得なかった井口にとって、「東穂高禁酒会」の入会は自然の流れであったともいえる。
翌春、東穂高の有力者たちが、地域の発展を目的に、村に「芸妓(げいぎ)」を設置することを決定。同禁酒会は、「地域の風紀を乱す」と、いの一番に「設置断固阻止」ののろしを上げ、設置反対の請願運動の先頭に立って行動した。
同会に入会後間もない井口も、この運動に積極的に参加し、運動を指揮した。同時期に、正教員検定試験にも合格。教師としての実力を確実なものとしていった。一方で、穂高を訪れる宣教師を訪ね、キリスト教への関心を高めるなど、井口にとって充実した時期となった。
しかし、井口の熱心さや純粋さ、また正義感といったものは、芸妓設置賛成者や反キリスト教者にとって、極めて目障りなものとなった。3年越しに争った芸妓設置問題は、「設置許可」が下された。井口らの奮闘むなしく、敗北が決まったのだ。
敗北直後から、井口を学校から排斥しようと運動が起こった。「耶蘇(ヤソ)の教えを子どもたちに押し付ける悪い教師だ!葬式の席にも結婚式の席にも酒がないなんて、村の付き合いが丸く収まると思ってるのか!」との意見が村民から起こり、校長へ直訴する者もいた。
井口には、すぐに地元穂高の小学校から豊科の小学校へ転任命令が下った。しかし、豊科でも井口の受け入れを拒否する者が現れた。井口は愛蔵に「どんな試練が待ち受けていようとも、神の御心と思えば、どうっていうことはない。少しばかり骨の折れる仕事だが、やりがいのある仕事だから・・・」と話したという。
並々ならぬ決意を聞いた愛蔵は、井口に「君の勇気と熱意には敬服する。しかし、教育者としての君が、騒然たる環境の中で損なわれてしまうのではないかと、そのことを一番恐れている。そこで、提案があるのだが、君自身の学校を持ってみる気はないかね」と返事をしたというのだ。
愛蔵に背中を押された井口は1898(明治31)年、安曇野の一角に、小さな小さな私立学校「研成義塾」を設立した。同校は、徹底した人格主義を貫いた。趣意書には、「人はいかなるものになろうとも、何をしようともその前に良き品性の人になれ」とあった。
英語、数学、漢文に加え、聖書教育も授業の中に組み込まれていた。井口は、聖書の話、祈祷、賛美歌などは、学生と共に自然豊かな万水(よろずい)川のほとりに出掛け、「心の優れた人になれ」「人のためになる人になれ」と諭した。また、因習にとらわれた農村部の女子たちには、「自由と独立」を基にした教育を施した。
こうして、井口は黙々と農村の青年の教育に励み、井口自身は私財を投げ打って学校の経営に充てた。行政からの支援は一切受けず、妻きくのは家計を切り盛りし、稲作、畑作、養蚕、機織りをするなどして夫を支えた。
井口の師であったのは、無教会派のキリスト者、内村鑑三であった。内村の影響もあり、井口はますます聖書の研究にいそしむようになった。当時、給料の数倍の値段だった聖書は、田畑を売って入手した。同館に収められている井口の聖書には、隙間にぎっしりと書き込みがされている。
内村は鉄道もない穂高の地を3度も訪れ、講演をしている。また、井口のことを「穂高の聖者ペスタロッチ」と礼賛している。内村からの手紙も同館に貯蔵されており、親交の深さが伺える。
また、親友相馬愛蔵の妻黒光が嫁入り道具として持参したというオルガンも同館に収蔵。相馬が研成義塾に献品したものだという。このオルガンを囲んで、学生たちは賛美歌を歌い、また内村と同じく無教会派のクリスチャンであった井口、相馬夫妻もこのオルガンを囲んで賛美をささげたという。このオルガンは日本製の中で2番目に古いものだと掲示がしてあった。
800人余りの卒業生を送り出し、その中の72人が米国のシアトルに渡り、キリスト教の理想郷をつくろうと志した。銀座の靴店の老舗「ワシントン靴店」の創業者東條たかし(たかしは「舟」「壽」が一字)もこの中の1人であった。
聖書に基づく人格教育を実践した同校は、34年間、井口と彼を支援する者に支えられ、穂高の地で「真の教育」を行ってきたが、井口は晩年、「この学校は自分1人で終わりにするように」と話し、惜しまれつつ閉校となった。
同記念館は1969(昭和44)年に設立。ボランティアらの手によって、現在も運営されている。取材に訪れた日、話を聞いた大倉嘉郎さんは、長野県内で教壇に立った元教員。「井口先生の思いは、まさに教育の原点。これから教員を志す人、現在、教育に行き詰まってしまっている教員の方々などにも、ぜひ見ていただきたい。井口先生の教育に対しての熱い思いを感じていただければ、大変うれしく思います。また、現代のクリスチャンの方々、地元にもまだこの館を知らない方々もいらっしゃると思いますので、訪れていただければ幸いです」と話した。
井口喜源治記念館は、穂高駅から徒歩6分。定休日は月曜日と祝休日の翌日。12月から2月までは土日、祝日のみ開館。入館料は大人400円、小人120円。問い合わせは、同館(0263・82・5570)まで。