新渡戸稲造の人格を学ぶことを目的に、北海道大学同窓生有志が集う「武士道講読会」の第7回の講演会が4月15日、東京都千代田区の学士会館で開催された。「ガールズ・ビー・アンビシャス 留学第1号女医、岡見京(けい)物語」との講演題で、北大同窓生で機能水研究振興財団理事長の堀田国元氏が講演した。岡見京の子孫をはじめ、新渡戸が初代学長を務めた東京女子大学の関係者など約60人が集まった。
岡見京(1859~1941年)は、クリスチャンとして医療伝道を志し、女性が医師となることが困難な時代に、海外留学によってその道を切り開いた人物だ。堀田氏は、京の孫である元北大教授の岡見吉郎氏の教え子で、以前から「祖母は留学第1号女医」であると聞かされていた。
2012年の夏に開かれた吉郎氏の米寿を祝う会で、吉郎氏から見せられた、新渡戸が京に贈った『武士道』の初版本に、「心弟」と書かれているのを堀田氏は発見した。それほどまでに新渡戸と深いつながりがあったにもかかわらず、なぜ京の功績が全くと言ってよいほど世に知られていないのか、と堀田氏は疑問を抱き、京についての調査を始めた。
京に関する史料は非常に限られていたが、各種の本や資料を丹念に調べていくことにより、京の生涯、京を取り巻く人物を浮かび上がらせ、『ディスカバー岡見京』という1冊の本にまとめ上げた。
青森の士族に生まれた京は、キリシタン禁制が解かれた翌年(1873[明治6]年)、横浜共立女学校に入学してキリスト教と出会い、在学中に横浜海岸教会で洗礼を受ける。卒業後は東京女学校で英語を本格的に学び、桜井女学校に英語教師として奉職していたが、米国長老教会派遣宣教師のツルー夫人の影響を受けて、貧民伝道・医療伝道を志すようになる。
当時は、女性の医学校入学は認められておらず、医術開業試験を受けることも許されていなかった。女性が医者になるための唯一の道が、欧米の医学校で学位をとることだった。
京は25歳の時、同じくクリスチャンで、貧民伝道への思いを共有する岡見千吉郎と結婚。2人はその篤(あつ)い信仰心ゆえに、夫婦で米国に留学することを決める。結婚1カ月後に千吉郎は一足先に米国ミシガンに出発(同じ船で新渡戸も渡米)、4カ月遅れて京もフィラデルフィアへ向かった。
京は、同地のペンシルバニア女子医科大学で4年間熱心に学んで医学博士の学位を取得して帰国し、貧民救済を目的とする慈恵医院で、婦人科主任として活躍。さらには、ツルー夫人の構想に共鳴してキリスト教に基づく日本初のリハビリ療養施設・衛生園を創設する。
男尊女卑の風潮が強く、女性が海外留学をするということ自体が大変であった時代に、既婚者でありながら海外留学を果たし、女医として確かな功績を残した京。その驚くべき活躍は、思いを一つにして生涯変わることなく京を支えた千吉郎と、頌栄女学校を設立して女子教育を推し進めた岡見一族の後押しがあったからこそなのだが、そういった背景をも含めて、京はまさに稀有な存在であったといえる。
堀田氏は、京の歩みを本にまとめるに当たって、京が過ごした当時のフィラデルフィアの様子、親交を深めたフレンド派クエーカー教徒の活動の様子、日本の医学界の様子をも織り込み、その時代背景をも鮮明に浮かび上がらせた。
調査に当たっては、新渡戸とどのような交流を持っていたのか、米国でどのような学びをしていたのか、京本人の心情が分かる史料はないかといった、幾つかの壁も立ちはだかったが、関係者らの協力によって不思議なように道が開かれた。こうしてこれまで歴史の裏に隠れていた一人のクリスチャン女性の偉大な業績が明らかにされた。
講演の後には、92歳になる吉郎氏があいさつに立ち、堀田氏の尽力の労をねぎらった。「こうした形で岡見京の生涯を知ることができうれしく思う」と感謝の意を表した吉郎氏は、「子どもの頃、自転車に乗って庭のばらの木を荒らして怒られたが、祖母は怒ると早口の英語になる癖があったので、全く怒られた気がしなかった」と幼い頃の記憶を話し、京の思い出を分かち合った。
堀田氏は、今回まとめ上げた『ディスカバー岡見京』について、「静かなチャレンジャー岡見京を通じて、ダイナミックに変動した明治の隠れた側面や、日米交流、新渡戸稲造や内村鑑三などとの交流、また、強い男尊女卑の風潮の中で、夫や岡見家の理解と支えを得て、海外留学して女医となった岡見京の高尚なチャレンジする姿を感じ取ってもらえたらうれしく思う」と話した。
『ディスカバー岡見京』についての詳細、問い合わせ、入手方法については、堀田氏(メール:[email protected] 、FAX:03・5435・8522)まで。