聖書では、神と私たちの信仰の歩みの中での祈りの重要性を繰り返し強調している。もし、神ともっと深い関係に入っていきたいなら、私たちは、いわば神との通信回線を保ち、神と常にコミュニケーションが取れる状態にしておく必要がある。祈りは、単に日々しなければならない事項を消化していく手段として扱われるべきではない。また、あたかも自動販売機で自分の欲しい飲み物を買うようなものと考えるべきではない。もし神に対して魂からの飢え渇きがあり、神がどんな方であるかを知ることに夢中になるなら、強制されなくとも、祈らずにはいられなくなるのだ。
多くのキリスト者は、祈ること自体に何の問題もないと思うが、私たちは祈りを複雑にし、その過程でその本質を見失う時がある。筆者もまた、このことに関して思い当たる節があり、祈りはシンプルなものだということをしばしば自分自身に思い起こさせる必要がある。マタイによる福音書6章9〜13節で、イエスがある男に教えた祈りはとてもシンプルなものであった。
では、5つの間違った祈りを紹介するとともに、どうすればそれらの祈りを本来そうであるべき御心にかなった祈りに変えることができるかを見ていこう。
1. 神の御心に沿って求めることをしていない
神の御心は、素晴らしく、喜ばしく、完璧だが、私たちの心は限りがあり、不完全だ。私たちは時々、私たちが神にしてほしいことをしてくれるように押し付けようとしてしまうが、これはとても滑稽なことなのだ。なぜかというと、神はもっと良い計画を持っているからだ。このポイントからずれていると、私たちの祈りの生活は複雑になり、神とのコミュニケーションの成長は妨げられる。ヨハネの手紙一5章14節に、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」とある。
2. 祈りが応えられるかどうかは、私たちの信仰深さによると思っている
私たちが自信を持って神に近づくことができる唯一の理由は、イエスがしてくれたことの故だ。イエスの十字架上の犠牲は、誰もが信仰によって渡ることができる永遠の橋となった。私たちが、「十分な信仰があればかなえられる」という自分で決めたルールで祈り、そうすることで神の元に来る権利を持てると考えることは、私たちの心を高ぶらせるだけで、神との間に溝を作る。父の元に行く唯一の方法は、私たちの信仰深さではなく、イエス・キリストを通してであるのだ(ヨハネ14:6)。
3. 御言葉によって導かれていない
祈りにおいて、最悪の基盤の幾つかは、私たちの気持ち、理屈、欲望である。これらのいずれも、本質的には何も問題はないが、聖書の御言葉に沿って祈ることは、私たちが神の御心に沿って祈る助けとなり、また、役に立たないものを除外することができる。聖書には、教訓、約束、原則などが書かれており、神を知り、理解していくことを助け、神と深いコミュニケーションを取れるようにしてくれる。イエス自身は、主の祈りをもって、素晴らしい祈りの型を提供してくれた。詩編は、祈りや礼拝をささげることが難しいと感じるときのための素晴らしいリソースとなる。
4. 定期的に祈ることに失敗している
テサロニケの信徒への手紙一5章17節には、「絶えず祈りなさい」とある。人間関係において、定期的に連絡を取り合わないならその関係が育っていくことが難しいように、神との関係も、定期的に交わらない限り、深めていくことは難しい。祈る時間の長さについてはさほど関係はないが、神に近づくという一貫性が大事だ。
5. 焦点がずれている
私たちの周りは、祈りを邪魔するものであふれている。ソーシャルメディア、他人、悩み、心配などだ。イエスもよく1人で祈っていた。私たちは、人里離れて祈っていたイエスの祈りの姿勢から学ぶことができる。