コミュニケーションは、良好な人間関係を築く上で最も必要不可欠なものだ。人々の間にコミュニケーションがあると、その関係は強く、深くなる。私たちは、関係を構築していく上でただ単に時間や労力を投資するのではなく、コミュニケーションをお互いに取り合うための方法や手段に投資している。そうすることで関係が深くなっていく。
神との関係についても同じことが言える。私たちは神に対して、自分の信頼、愛情、従順という点においてもっと成長したいと思うなら、コミュニケーションの領域において成長すべきである。神はいろいろな方法で私たちに語り掛けられるが、第一の方法は、神の言葉、すなわち聖書を通してである。聖書は、イエスに従っていく上で完全で、有効かつ重要だ。そして御言葉を愛していくならば、キリストの内において成長していくのである。
ここでは、日々のディボーションで成長し、聖書を読むことを大いに楽しむための実用的な方法を幾つか紹介していく。
御言葉の価値を理解する
聖書は退屈であまり重要でないと思っているクリスチャンが多くいることは否定できないが、それは彼らが神の御言葉の価値を理解していないためである。ヨシュア記1章8節は、私たちに、神の言葉を瞑想することの大切さを思い出させてくれる。「そうすれば、あなたは栄え、成功する」のだ。神は、聖書の中で3573個もの約束を私たちに下さっている。聖書は、クリスチャンが持つことができる最も貴重な資産であり、悲しいことに、多くのクリスチャンたちは、聖書がどれだけ素晴らしいものであるかということが分からないのだ。
御霊によって導かれる
私たちが聖書を読み、御霊によって導かれるとき、神の御言葉を魂のレベルで理解することができる。聖書を読むとき、また御言葉に触れる前に祈ることはとても良い。御霊の導きなしに聖書を読むことは無意味だ。多くの未信者たちが聖書を読んで、御言葉から何も得ないばかりかむしろ疑いを持ってしまうのは、彼ら自身が、御霊によって導かれることを否定しているためである。
時間と場所を設定する
日々の忙しい生活の中で立ち往生するのは簡単だ。そして、きちんと聖書を読む習慣を初めて捻出するというときは、特に大変だ。開始するための一つの良い方法は、御言葉を思い巡らす場所と時間を作ることだ。そしてそのスケジュールを守る。そのようにして、人は、運動習慣を構築するのと同じ方法で、聖書を読むことも自分のルーチンの中に入っていき、楽にできるようになっていく。
量ではなく、質に焦点を当てる
聖書を読む皆さんに言えることだが、重要なのは一日にどれくらい読めるかということではなく、読む度に、神の言葉に深く浸かっていくということである。聖書の中にはたくさんの真実がある。たった一節が、ある人の人生において多くのことを啓示するという場合もある。私は、聖書の中の一節から、日記を記しているあるビジネスマンを知っている。神の御言葉はあまりに深く、とても一回読んだだけで全ての意味を明らかにすることはできない。
ジャーナル/日記
聖書箇所から個人的に受けた啓示や祈りなど、どんなものでも普段の日記に書くという素晴らしい方法だ。日記の形式や厳格なガイドラインはない。ただ聖書から、聖霊が導くままに書けばよい。
質問する
聖書には、数え切れないほどの攻撃や試練があり、クリスチャンたちが神の元に導かれていくのに今もなお有益である。神の御言葉を疑うのは良くないが、聖書を読んで疑問を持たないことも同様に良くない。これが、多くのクリスチャンたちが整っていないゆえんだ。彼らは聖書を読むときに質問をしないのだ。例えば、このような質問をしていい。「これが本当だとどうやって信じられるのか」「今日置かれた課題に関して、聖書は何と言っているのだろう」「神はここでこう言われたが、本当に意図されようとしたことは何だったのだろう」
適用する
ヤコブの手紙1章22節では、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」とある。御言葉を読み、それを人生に適用することによって、私たちはとても大きな力を得ることができる。神の御言葉を読み、神の御約束を覚え、神に従っていくための戒めを探すことは、クリスチャンの人生に大きな命をもたらす。聖書の理解においてもっと成長したいなら、生活の中に神の御言葉を適用する機会がないか、常に目を光らせていることだ。