福音派のクリスチャンたちは、言葉で祈ることがとても得意だ。良い祈祷会の例として、1人の人が声に出して祈り、また別のメンバーが1人ずつその後に続いていくというものがある。私たちは、沈黙は厄介であると考える傾向にあり、かつ、沈黙に関してどうしたらいいか分からないということが実情としてある。
しかし、聖書に見られる祈りは、言葉によるものだけではない。時に、祈りは沈黙である。時折――これは私たちにとって一見非常に奇妙に聞こえるかもしれないが、祈りは行動であり、言葉で表現されたものではないということだ。
私たちは、2人の偉大な預言者、エリヤとエリシャの人生からこのことを学ぶことができる。
(1)エリヤは、彼が主の言葉を告げるまでは、イスラエルに雨が降らないことをアハブ王に伝えるよう、神から言われた(列王記上17章1節)。彼は、バアルの預言者と偉大な対決を行った。バアルの神が自分たちのいけにえの牛に火をつけることができるかどうか挑戦した。バアルの預言者たちは火を起こすことができなかったが、神には可能であった。その結果、何百ものバアルの預言者たちが殺されたが、危機はまだ終わっていなかった。まだ雨が降っていなかったのである。だから、列王記上18章42節には「エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり、顔を膝の間にうずめた」とある。
これは祈る時の姿勢として普通ではないが、エリヤは神に雲を送ってくださるよう祈っていたのだ。エリヤは7度にわたり、自身のしもべに海の方を見に行かせる。そして7度目にしもべは、「手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます」と言った。これはエリヤの祈りが答えられたという印である。
(2)エリシャはエリヤの弟子でかつ後継者であった。列王記下4章では、シュネムの女性の息子が癒やされる話がある。彼女は神の奇跡的な介入により男の子を得るが、男の子は、大きくなったある日、急死してしまう。そしてエリシャが呼び出されるのだ。34節で、「エリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった」とある。エリシャは立ち上がって、家の中を歩き回ってから再び寝台に上がり、同じプロセスを繰り返した。そうして少年は生き返った。
エリシャは、死んだ少年の体のパーツの配置を確認し、神が彼にやってほしいと思っていることを実行に移した。
(3)列王記下6章では、水に浮かぶ斧の話がある。エリシャと彼の弟子たち、つまり「預言者の仲間たち」は、住む場所を探していた。そのうちの1人が木を伐採していたところ、誤って斧を川の中に落としてしまう。彼は「ああ、御主人よ、あれは借り物なのです」と叫んだ。
エリシャが枝を切り取って水の中に投げると、水面に斧が浮き上がった。これはささいなことのように思えるかもしれないが、当時鉄の斧は貴重であり、十分奇跡として考えることができるものである。
これら三つの奇跡のポイントは、彼らが、望む事柄と自分自身とを結び付け、奇跡を行動で示している点だ。言葉は伴っていないが、いずれの場合も、行動によってはっきりと示しているのだ。
これは、今日のクリスチャンにとって非常に困難を伴うものだ。言葉で祈ることはとても簡単ではあるが、私たちのささげるべき祈りは、必ずしも言葉だけによるのではない。もし私たちが、祈る通りに自分自身を変えていくなら、主の弟子として整えられて行く私たちの歩みは、どのようになるだろうか。
神に働いてもらうようお願いする代わりに、その答えのように私たち自身が変えられていくなら、どのような結果がもたらされるだろうか。
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マーク・ウッズ(Mark Woods)
バプテスト派牧師。ジャーナリスト。英ブリストル大学、英ブリストル・バプテスト大学卒業。2つの教会で牧会し、英国バプテスト連盟のニュースサイト「バプテスト・タイムズ」で7年間編集を担当。その後、英国のメソジスト系週刊紙「メソジスト・レコーダー」で編集顧問を務め、現在、英国クリスチャントゥデイ編集幹事。