骨の折れる仕事に取り組んだり、これまでに経験のない過酷な旅に踏み出そうとしているとき、精神的なものであろうとそうでなかろうと、備えができていないと感じるのは不安なことだ。
そうした状況では、あれこれ疑問が湧き出てくる。「どうすれば成功できるだろうか」「そもそもこんなことなどできないのではないか」などと自問し、神に対しては「本当に私を選んでくださったことが御心だったのか」と問うのだ。
経験のないことに取り組むときに、必ず準備不足になるということにはならない。たとえ以前に同様の挑戦に立ち向かったことがなくとも、神は直面する状況に対処するのに必要な手段や技術を与えてくださる。神は私たちが神の業を行い、人生の困難な時代を切り抜け、新しい役割と責任を引き受けることができるように備えてくださるのだ。
神は過ちを犯すことはないが、私たちは過ちを犯す。特に次のことを認識しなければ、間違ってしまう。神はその計画の中で、ある役割を担うように私たちを選んでくださっているだけでなく、常にうまくいくように私たちを訓練し続けておられるということだ。
私たちは、神が私たちの未来の備えのために何かをしてくださっていることに、必ずしも気付いているわけではないので、時にイラついたり、混乱したり、落胆してしまう。
神が私たちにどのような備えをしてくださっているかを認識していれば、私たちの生活の中に見られる神の働きについて、より敏感になり、感謝できるようになるだろう。
神は私たちに待つことを経験させる
聖書に登場する偉大な人物たちは「待つ」期間を経験した。モーセはその1人であるし、イエスでさえ、時間をかけて成長し、円熟して世界に最も大きな影響を与えた。
ウエイターが注文を取りに来るのを待つような単純なことであろうと、子どもたちが育つのを待つような大事なことであろうと、私たちは皆、忍耐力を試す経験を通らせられる。こうした日常的な2つの場合において、目的を達するまでの時間があるからこそ、未来への備えをしていけるのである。
同様に、神が私たちに時間を与える場合、それは私たちの未来のための準備期間を下さっているのだ。その時間があるから、私たちは自分たちの願いを冷静に見つめ、これから進んでいくべき道に対して、より理性的になれるかもしれない。また、その間にいろいろな知識を得て、私たちの欲求にどう対処していけばいいかをより良く理解できるようになるかもしれないのだ。
神は素晴らしい贈り物を下さる
今置かれている環境の中では、それほど役に立たないと思われることが得意だということがあるだろう。しかし、いつかその才能が神に対する奉仕の大事な要素になるかもしれない。それは交渉事をうまく進められるという一見平凡な才能かもしれないし、主なる神に対する強い信仰を持つことのような非常に重要なことであるかもしれないのだ。
今いる環境の下では、グループ間の争いの調停をするなど、それほど必要ないかもしれないし、人生がうまくいっているから自分の信仰を保っていくのはそれほど大変ではないかもしれない。しかし、いつの日か、そうした能力または今育まれているどちらの能力であっても、大いに役立つことがあり得るであろう。
神はしるしを送ってくださる
予期しない個人的な悲劇に遭遇する前に、詩編のある言葉が頭をよぎったとか、本人、あるいは知り合いの誰かが深刻な病に倒れる前、数カ月にわたって癒やしについての説教が頭に残っていたとか、そういうことは偶然ではない。
聖書研究グループで語り合った話題、友人と交わした一連の会話、教会で聞いた説教、聖書の一節などが繰り返し心をよぎるとき、それは今まさに経験していることと特別関連性がないように思えるかもしれないが、そのことによって常に神が私たちに人生の紆余(うよ)曲折に対処する備えとなるメッセージを伝えてくれているのである。