大流行の一方で、事故や事件などに巻き込まれる危険も出ている「ポケモンGO」。また、戦争を扱った「コール・オブ・デューティー」や「バトルフィールド」のような暴力を内包するシューティングゲームを考えるとき、「クリスチャンがこのようなゲームをやるべきだろうか」という疑問にぶつかってしまう。
米アリゾナ州を拠点としているトリニティー教会のマーク・ドリスコル牧師は7月のビデオブログの中で、クリスチャンがゲームをやることが信仰上、正しいか誤っているかに答えている。ドリスコル氏は、最初に自分の良心を注視するように勧めている。
ドリスコル氏は、「(ゲームをすることで)良心にさいなまされるなら、その良心を注視しなければなりません。ローマの信徒への手紙の最初の幾つかの章や箴言などには、私たちの良心について多く書かれています。神は私たちに良心を与えられました。神は不信心で無分別なことに対して敏感であるように、神の言葉や聖霊の他に、私たちに良心を与えてくださっているのです。ですから、良心にさいなまされたり、重荷に感じたりしたら、その良心が本当に何を語り掛けているかに注意する必要があるのです」と語っている。
ドリスコル氏自身はゲームをしないし、ゲームについてあまりよく分からないことを認めた上で、クリスチャンの文化に対する関わり方について3つの選択肢を提示した。つまり、受容するか、拒否するか、または再考するか、の3つの選択肢だ。
ドリスコル氏の説明はこうだ。クリスチャンが受容できる文化形態として、たとえば神を賛美するために使われる音楽スタイルが挙げられる。拒絶する例としては、不適切な映画や不適切な行為に使われる科学技術が挙げられるだろう。
再考する文化の例として、つまり文化そのものが必ずしも良いとか悪いとかではなく、人間の心や意志によって決まるものには、アルコールを飲むか、ある種のスポーツや娯楽に従事するかなどが含まれる。ドリスコル氏はゲームもこのカテゴリーに属していると言う。クリスチャンは「今抱えている問題が、受容されるべきか、拒否されるべきか、それとも再考されるべきか」という問題提起を常にすべきだというのである。
ドリスコル氏はまた、「聖書にはゲームのことは述べられていないから、ゲームが罪だとは明白には言えません。5人の子どもの父親として私が言えるのは、ゲームには再考してみる面はあると思うということです。特に小さな子どもにとっては、教育用ゲームがそうです。子どもたちはいろいろな教育ゲームを使って、読み書きの仕方を覚えたり、聖句を暗記したりします。これは再考して用いる例です」と述べている。
さらに、ゴルフやテニスをし、映画に行き、ネットサーフィンをし、本を読むことによってリラックスするのと同様に、ゲームもリラックスさせる活動になるとドリスコル氏は続ける。
何事も個々人がやり過ぎてしまうところに罪が出てくるとドリスコル氏。「私たちがやり過ぎたり、乱用したりするところに罪が台頭してきます。ですから、アルコールをたしなんでも罪にはなりません。主イエスの最初の奇跡は水をアルコールに変えたことでした。けれども、アルコールを飲み過ぎて酔っぱらったり、未成年者のアルコール使用に伴う法律違反は罪です」
「食べることは明らかに罪ではありませんが、どう食べるかによって暴食という罪になることもあります。ジャン・カルヴァンは、人間の心は偶像製造工場だと言いました。神に逆らって本来良いものを悪いことに使ってしまう罪は、あらゆるところに見いだされます。よこしまな心で使うことによって、良いものが実に愚かで不信仰で悪質なものになってしまうのです」