「ちょうふ市内・近隣大学等公開講座」(主催:調布市文化・コミュニティ振興財団)が9月23日、調布市文化会館たづくり映像シアターで開かれ、ルーテル学院大学学長の江藤直純氏が「命の終わりへの介入の可能性と人間の責任―延命治療、死の受容―」と題して講演した。医学の進歩により、命の終わりがどんどん延びる中、人間らしい豊かな命を全うする仕方について、集まった約60人の受講者と共に考えた。
公開講義の今回の総合テーマは「命の始まりと終わり、人間の責任」。9月6日には、「命の始まり」に当たる部分として、「命の始まりへの介入の可能性と人間の責任―治療、診断、選別―」と題して講義が行われた。それに次いで行われたこの日の講義では、「命の終わり」に焦点が当てられた。
江藤氏は冒頭、1975年に上智大学でイエズス会の司祭で同大名誉教授のアルフォンス・デーケン氏が、「死への準備教育」という講義を始めたことで、これまで日本では「縁起が悪い」と忌み嫌われていた「死」を学問として捉えるようになったと話した。また、デーケン氏が「死を迎えるわれわれがどう生きるか」と問う中で「人は生きたようにしか死なない」と語ったことを紹介し、「自分の死というのは、どう生きてきたかによっておのずと決まり、最後だけかっこよく死ぬことはできないということです」と話した。
江藤氏は、ここ40年ほどで広がった「死」に関する語彙(ごい)を通して、日本人の死に対する考え方の変化を語った。例えば、「患者の権利」について、以前ならば、医師は絶対的な存在で、治療の決定権を握っていた。それが、今では患者・家族に治療について分かるように教え、納得する治療を選ぶことができるようになった。「私の命だから私が決める」という、患者の権利・人権が広がってきたと話す。
戦後一番変わったのは平均寿命で、第2次世界大戦前は50歳だったのに対し、現在は83・5歳にまで延びている。江藤氏は、「これは医学が進歩したことに加え、社会福祉、栄養、住居、教育の充実、乳幼児の死亡率の改善によるところが大きい」と話す。その中で「QOL」に触れ、通常QOLというと「生活の質(Quality of Life)」だが、「生活の量(Quantity of Life)」という意味もあると語った。「これまで日本は、『量』を追求し、寿命を延ばしてきました。実際延びた現在では、生命や人生の量ではなく、『質』について考え始めている」という。
江藤氏は、命を考える上で、SOL(生命の尊厳:Sanctity of Life)という言葉を用いた。「医学の発達により、自動車の部品を替えるかのように体を治せるようになりましたが、命そのものは、人間のコントロールは決して及ばない神聖なものです」と述べ、「もし、この言葉がなければ、私たちの命は『質が高い』『質が低い』と見なされてしまいます」と話した。
また、よく使われるようになった「生命の尊厳」について、「何をもって私たちは『命の尊厳』を訴えるのでしょうか」と問い掛け、「命の尊厳」を理路整然と説明することの困難さを語った。「聖書の創世記で、ご自分で創った人間を見て神様は『はなはだいい』とおっしゃいました。そう言ってもらえることで、私たちは自分が尊い存在であることが分かるのです」と、「生命の尊厳」は、外から「大切な存在なんだ」と言ってもらうことで分かると説明した。
講義の中で「人は死ぬことは選べないが、死に方は選べる」ことを強調した江藤氏は、「その意味では、延命治療の根拠ともなるQOL、SOLは危険性を伴う」という。その上で、「安楽死」と「尊厳死」の違い、「脳死」と「臓器移植」、「死の判定の三徴候」「臓器移植法」「一人称・二人称・三人称の死」「スピリチュアリティー」といった死をめぐるさまざまな事柄について語った。
紀元前ギリシャ時代にもあった安楽死が「ある人為的な行為をしなければもう少し生きたであろう生命に人為的に介入することによって、その人を死に至らしめること」であるのに対し、近年使わるようになった尊厳死は、「ある人為的な行為をすればもう少し生きたであろう生命に、人為的に介入しないことによってその人の死にいたるプロセスを止めないこと」となっている。尊厳死とは、文字通り尊厳ある生き方をすることで、老人ホームなどでの「平穏死」というのも同様の意味だ。
1980年代から広まった脳死と臓器移植は、脳幹を含む脳全体の不可逆的な機能喪失を死と見なし、必要とする他の人に臓器を移植すること。従来日本では、死の判定の三徴候(心拍の停止、自発呼吸の停止、瞳孔拡大)をもって死としたが、「臓器移植法」により脳死となった人の臓器を取り出し、他の命を救うことができるようになった。脳死となり、意識が戻る可能性がないと判断されたときにどうするかは、残された者にとっては非常につらい決断となる。このことも、自分がどう死にたいのかということと深く関わる問題で、生前に本人が意思を明らかにしておくことが大切となる。
臓器移植に絡めて江藤氏は、「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」という3つの死が人間にはあることを、ノンフィクション作家で評論家の柳田邦夫が書いた『犠牲(サクリファイス) 我が息子・脳死の11日』を通して話した。同書は、精神を病んだ次男が自殺を図り脳死状態となった11日間を記したもの。心の病のために「誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在」だと悩み続けていた息子のために、父である著者は悩んだ末に臓器移植を決意する。
また、脳死と臓器移植という医療問題を家族の問題として語ると同時に、脳死状態となった息子の傍らに座り、「死」を受容する過程も描かれる。江藤氏は、「私たちは、自分とは関わらない人の死でも心を痛めますが、しばらくたてば普通の生活に戻ります。これは決して心が冷たいからとかではなく、『彼らの死(三人称の死)』だからです。でも、人生の大切な部分を共有している人、親子や恋人といった人の死は、三人称の死とは違います。その死を受け入れるには時間がかかるのです」と述べた。そして、「二人称の死」が、自分の人生にとって大きな意味をもたらすことを話した。
続いて、1975年に米国で実際に起きた「カレン事件」に触れ、「リビングウィル(生前発効遺言)」が大切であることを強調した。江藤氏は、「キリスト教的に考えるならば、命は神様からの預かり物で、私たちはそれを管理する責任があります。命の終わりも責任を持って考えなければなりません」と力を込めた。この「責任」とは「応答する力」であるとし、家族、隣人、さらに人間を超えた神との関係の中で自分の生と死を理解していくことの大切さを語った。
最後に江藤氏は、リビングウィルを表明することを勧めた。脳死となったとき、その人に関わる人たちは常に「あの時こうしておけば...」という思いにかられ、いつまでも苦しむことになるからだ。また、リビングウィルは、自分自身がどういう生き方をしたいのかを確認する機会ともなる。「どういう死に方をしたいかを決めることは、人間の傲慢(ごうまん)ではなく、私たちに豊かな命を預けてくださる神様に対する責任だと思っています」と結んだ。
参加した60代の女性は、「死について全般的な話が聞けてよかった。共感するところもたくさんあった」と感想を語った。