今年も終戦71年を迎え、日本のさまざまなところで祈りの場が持たれた。政治家たちが靖国神社でどのように祈るかは海外からも注目されるため、慎重に言葉を選んだインタビューの様子が報道される。どこに向かって祈るかということよりも、どのような立場で何を祈るかが常に問われているように思う。
戦没者追悼式では「黙祷!」の掛け声が毎年のように流れる。「黙祷!」という言葉は、とても便利な言葉であるとともに、実に多くの人の思いを束ねる力のある言葉でもある。
終戦記念日だけではない。熊本、東北、神戸を襲ったそれぞれの震災記念日でも、また最近よく見かける宗教者のいない無宗教葬においても、「黙祷!」と誰かが声を上げる。実に多くの人の悼みが凝縮された深い祈りの時間である。
そういえば、私自身も信仰を持つまで毎年のように初詣に出掛けていた。神社の神殿に向かい身勝手な祈りをささげていた。そこに何が祭られているかなど気にすることなく真剣に祈っていたのを覚えている。
大学受験の時は、結構努力して準備を重ねたが、最後は祈るだけだった。交際相手の女性のためにも真剣に祈っていた。長男が産まれるときは、家で待機するように言われ、狭いアパートの一室で電話を前にしてひたすら祈っていた。
29歳にして聖書信仰を持ち、確かに祈りの質は変わった。声に出して祈ることも多くなった。天地を創られた神様に向かって祈れることは幸いなことである。
しかし、信仰を持つ前の祈りは一体何であったのだろうか?どこに向かって祈っていたのだろうか?と思うことがある。多くの人が「黙祷!」という言葉に心を合わせているのは、一体どこに向けられた祈りなのだろうか?
祈りがどこに向けられるべきか?ということは、何を信じているかに関わることである。大切なことであるにもかかわらず、日本人は信仰の対象に触れることを避ける傾向がある。
日本人の多くは、自分は無宗教だと告白するにもかかわらず、宇宙を支配する大きな力を感じ、死後の世界や天国の存在さえ考える。しかし、何を信じるか?どこに向かって祈るか?を口に出すことはあまりない。それは個人の内面の問題で、公にすることではないと多くの人は考えている。以前の私もそのような日本人の1人だった。
日本人が信仰心を表現できない理由の1つに、江戸時代のキリスト教迫害期に切支丹(キリシタン)弾圧のために実施された檀家制度(寺請制度)の影響が考えられる。
檀家制度は、江戸幕府が1612(慶長17)年にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせたのが始まりである。元は棄教した者を対象としていたが、次第にキリスト教徒ではないという証しとして広く民衆に寺請が行われるようになった。
武士・町民・農民といった身分を問わず、特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである。これを寺請制度という。
寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。寺請を受けない(受けられない)とは、キリシタンのレッテルを貼られ、迫害の対象とされ、無宿人として社会権利の一切を否定されることにつながったのである。
この時代に、日本人の全てが心の内面においても仏教徒になったとは考えられないが、表向きは仏教徒としての体裁を整えることが、日本人として、またそれぞれが所属する村や家族の存続にとっては不可欠だったのである。
次に、日本人が内面の信仰心を表現できない国民となった第2の要因として、明治維新より第2次大戦まで続いた国家神道の影響が考えられる。明治維新において、政府は欧米列強に対して短期間に日本を中央集権国家に仕立てるために、突然、天皇を国家経営の中心に据え、その根拠をそれまでほとんど体系化されてこなかった神道に求めたのである。
当然、仏教やキリスト教は弾圧の対象になるところであったが、近代国家として海外との連携を重視する中で、信教の自由を認めることを要求され、対応が必要になったのである。
そこで政府がとった策は、宗教活動の外部に現れる行為(例えば布教活動など)は禁止するが、個人の内面に関わる部分は許可するというものだった。また国家神道は宗教ではなく、国民が従うべき儀式とし、大日本帝国憲法においても信教の自由を認めつつも臣民としての義務に背かないことを条件にしたのである。
このような奇策を日本人が受け入れていった背景には、宗教は政治の道具であり、それに反する行為をすること自体、社会に適応できないことを江戸時代の政策からも十分に学んでいたからと考えられる。
日本人は、心の内面の信仰心を表現しないことの大切さを、江戸時代から長年学んできた世界でもまれな国民なのである。そのような日本人に寄り添った宣教とは何であろうか? よく考えてみたい。
◇