沖縄県宜野湾市にある佐喜眞美術館で7月22日、沖縄・石川福音教会(重元清牧師)の設立50周年を記念したシンポジウム「沖縄と大和―その溝に立ち―」(クリスチャントゥデイ後援)が開催された。平良修氏(日本基督教団うふざと伝道所牧師)、佐喜眞道夫氏(佐喜眞美術館館長)、宮村武夫氏(クリスチャントゥデイ編集長)による特別鼎談(ていだん)として開催された同シンポジウムを取材した。
美術館があるのは、米軍普天間基地と隣り合わせの場所。美術館の入り口前には、鉄の囲いで覆われた米軍基地があり、英文と日本文で注意書きがあった。美術館に入ると、誰もが目を奪われる「沖縄戦の図」。壁一面に描かれた沖縄戦を物語ったこの作品は、作者の丸木位里氏、丸木俊氏夫妻が「沖縄の地に置きたい」と願い、その思いが成就したもの。毎年、多くの修学旅行生がこの絵の前に立ち、何かしらの思いを胸にこの地を後にしている。
登壇した佐喜眞道夫氏は、先祖の所有だったこの土地を個人的に米軍から返還。美術館を設立し、「アートで平和をつくる」をテーマに修学旅行生にも、沖縄戦の悲惨さ、沖縄の苦悩を伝えている。
平良修氏は、反戦平和を訴えるウチナーンチュ。沖縄キリスト教短期大学学長時代には、入学試験が不合格だった学生に励ましの手紙を送っていたといったエピソードもある。最近、『私は沖縄の牧師である』を出版した。現在は、日本基督教団うふざと伝道所牧師として、沖縄の宣教に当たっている。
本紙編集長の宮村武夫氏は、2013年までの26年間、沖縄で牧会。「沖縄で聖書を読む」ことはもとより、「聖書で沖縄を読む」ことをテーマに牧会を行ったヤマトンチュの牧師である。
鼎談は、佐喜眞館長が同美術館を設立するに至った経緯から話が始まった。「丸木さんの『沖縄戦の図』を見て衝撃を受けた。この絵には、沖縄の『悔しさ』が詰まっていると感じた」とそのきっかけを話した。
疎開先の熊本県から沖縄に戻った佐喜眞館長は、学生時代に大人たちの多くが沖縄戦を語っているのを耳にしていた。しかし、時折、話がかみ合わなくなってくることがあった。「ひめゆり資料館ができるときにも、同じようなことが起きたと聞いた。みな、漆黒の闇を無我夢中で逃げていたので、見たこと、聞いたことが違うのは当たり前。一つ一つの証言が全てを物語っていると思う」と話した。
また、大学時代には、再び沖縄を離れたが、当時、周りの友人たちに沖縄戦の話をすると、興味なさそうにしている様子を感じた。「佐喜眞くん、日本中が焼け野原になったんだよ。沖縄だけが特別じゃない」と言われたことに、「いや違うんだ! 空襲があった地域、原爆が落とされた地域は、確かに大変だったかもしれない。しかし、沖縄は違う苦しみを今も持っているんだ」と言いたかったが、その術を知らなった佐喜眞館長は、ただただ唇を噛んで、悔しい思いをしているしかなかった。
「沖縄戦の図」を描いた丸木氏は、この絵を完成させるのに、沖縄戦に関する本を160冊以上も読み、専門家の話も聞いた。佐喜眞館長も自分が知り得る限りの情報を丸木氏に伝えたという。それでも、時々丸木氏が「沖縄は分からん!」と話していたことを今も時々思い起こし、その意味を考えているという。
この日のタイトル「沖縄と大和―その溝に立ち―」について、「この両者の間には、とてつもなく深くて暗い闇があると感じている。先日、翁長(雄志)沖縄県知事に、国の権力者から『沖縄も日本本土も同じつらい戦争を経験したではないか』といった言葉が掛けられたことに違和感を覚えている。その違和感は、四十数年前、自分が大学生のころに味わった屈辱的な思いによく似ている。あれから、日本人の意識は全く変わっていないということだ」と話した。
平良氏は、丸木氏が『沖縄戦の図』を制作するときから丸木氏の相談にのっていたことを明かした。ウチナーンチュとして話せることは全て話し、実際、この絵の制作にとりかかったのは、平良牧師の当時の住まいの近くであった佐敷という場所だった。
絵が完成すると、丸木氏から『この絵を沖縄の人にもらってもらいたい。私蔵するのではなく、公のものとして、今後の平和教育に役立ててほしい』と要望があったという。佐喜眞館長がその役を担い、現在に至るというのだ。「僕は、この美術館友の会の会員番号1番なんですよ」と話し、会場の笑いを誘った。
平良氏は、1931年生まれ。日本が15年という長い侵略戦争に突入した年でもあった。少年時代の平良氏は、優秀な「軍国少年」であった。琉球から沖縄へ。古い琉球の習慣や言葉を捨て、徹底的に日本人になることを叩き込まれた。「くしゃみの仕方まで日本人になれ!」と言われた時代だったという。そうすることに何の疑いもなかった。
配属将校のいる宮古中学に進学すると、1年生の時に、急に台湾へ疎開するよう命じられた。「なぜ、台湾へ逃げるんだ! 私は、勇ましい大日本帝国の少年として、ここに残り、沖縄を守るんだ!」と言って大いに反発した。
しかし、「日本は、戦争に勝ったのち、新たな国を築くのに優秀な若い人材が必要だ」と諭されて、台湾へ疎開。全員が台湾人の第一中学に対し、ヤマトンチュが勉強するのは第二中学校であった。平良氏も第二中学に転校するが、終戦を迎えると、それまで気付かなかったが、クラスの中にいた1人の台湾人が、日本人に対して報復を始めた。
椅子を持ち上げるとそれを振り回し、日本人生徒に向かって投げた。日本人生徒たちは、ただただおびえて教室の隅にかたまっていた。平良氏も一緒に逃げようとしたら、その台湾人が「平良! お前は琉球人だから別だ! 離れていろ!」と叫んだという。「僕は日本人だ! 琉球人ではない!」と抵抗したが、後に何度もこのことを思い出しては、「一体、自分は何者なのか」と悩んだという。
それから、沖縄で牧師になり、1966年には第5回高等弁務官の就任式の祈祷を依頼された。その時、「どうか沖縄が正常な状態になるように」と祈ったことが、後に大きな問題となった。平良氏は、「日本の敗戦後、このように米軍のもとで沖縄が統治をされ、高等弁務官を迎えるような状態は異常だという意味合いもあった。これは本心だったが、当時大きな話題となってしまった」と話した。
沖縄は、琉球処分から現在に至るまで処分をし続けられている。「その認識が、ヤマトの人にあるか? これこそが、ヤマトとウチナーの『溝』では。これをどう埋めるかが課題だ」と厳しい口調で話す平良氏。続けて、辺野古基地、高江ヘリパッド問題にも言及し、「ヤマトから、たくさんの人たちが高江に来て、お金と時間をかけて闘ってくれている。涙の出るような光景だ。しかし、辺野古にしても高江にしても、小さな噴火口にすぎない。この火山脈の根底には、『日米安保条約』が流れている。これは、日本の米軍基地の74パーセントがある沖縄の犠牲の上に成り立っている条約だ。中には、辺野古、高江は反対だが、安保条約は必要と考えるヤマトの人もいる。『沖縄の犠牲の上にある日本の安全』といった価値観、政治の流れ、歴史をどこかで食い止めなければ、ただ噴火口をおさえるだけでは、問題の解決にはならない」と話した。(続きはこちら>>)