上智大学(東京都千代田区)は11日、ポーランド広報文化センターと共催で、教皇ヨハネ・パウロ2世来日35周年を記念したイベント、「教皇ヨハネ・パウロ2世の平和アピールと現代世界~教皇来日35周年を記念して~」を開催した。学内外から約220人が参加した。
教皇ヨハネ・パウロ2世が初来日したのは、1981年2月23日から26日。東京、広島、長崎を訪れ、上智大学も訪問している。この一連の訪問で、「過去を振り返ることは未来に対する責任を負うことです」との言葉を繰り返し、平和と核廃絶のメッセージ「平和アピール」を全世界に発信した。
その「平和アピール」から35年。そして、先月11日に開催されたG7広島外相会合での「平和宣言」の採択も記憶に新しい今、教皇来日時の記録映画の上映やシンポジウムにより、真の平和の意味と未来の平和について考えた。
プログラムの第1部では、教皇の来日を記録したドキュメンタリー映画「平和の巡礼者 ヨハネ・パウロ2世」の上映会が行われた。映画は、教皇が羽田空港に降り立つところから始まり、東京、広島、長崎でささげられた野外ミサや、人々との交流などが55分にわたり収められている。
上映後には、この記録映画の監督で、日本映画大学特任教授の千葉茂樹氏と、当時バチカンの日本語セクションに在籍し、来日時には東京からバチカンへニュースを発信していた聖パウロ女子修道会シスターの石野澪子氏が登壇し、トークセッションを行った。
教皇の日本滞在の全行程をフィルムに収めてきた千葉氏は、大雪に見舞われるなど天候の悪い中、少ないスタッフで工夫を凝らしながら撮影したことや、スタッフが足りず、映画会社の社長がカメラを回していたこと、大雪に見舞われた長崎のミサで、教皇が「恵みの雪」と祈った意味を、信仰を持たない人に教えながら作業したこと、最後のシーンで教皇がかぶっていた赤い帽子を椅子の上に置いたいきさつなど、当時のエピソードを次々に語った。
特に印象に残っているのは、東京・武道館で行われた「若者との集い」で、この時教皇が、ポーランド民謡を子どもたちと一緒に歌い、踊るという一幕があり、「よく撮れたと今も思っている」とハプニングともいえるシーンを思い返した。
また、訪問する先々で真っ先に向かうのは、障がい者や弱い人であったことなども明かし、「信仰の人でありながら、チャーミング。優しい人柄が魅力になっていた」と日本訪問中ずっと見てきた教皇の様子について語った。また、「粉雪が舞う広島の平和公園で行ったメッセージはすごい迫力だった。あの迫力は日本語だったからだと思う」と話した。
教皇の来日が公式発表されたとき、バチカンの日本語セクションにいた石野氏は、日本訪問を前に、忙しい教皇が食事の時間を日本語の勉強に充て、練習を兼ねて日本語で朝のプライベートミサを行っていたことを伝えた。
石野氏は、「来日されて、『親愛なる日本の皆さん、私は平和の巡礼者として参りました』と日本語で話されるのを聞いて、全身に電気が走ったように感動し、涙が出てきた」と述べ、「訪問中、13のスピーチを全て日本語で行った。このようなことは、今までどこの国でもなかった」と語った。
石野氏は教皇の晩年についても触れた。教皇は、10年以上バーキソン病を患い、だんだんひどくなり、最後には自分で歩くこともできなくなっていたという。そのような中で「私は年老いています、でも老いや病気は決して恥ずかしいものではありません。それは人間の自然の姿です」「私の苦しむ姿を皆さんに見ていただくことによって、苦しんでいる人たちを慰め励ましたいのです」と常に語っていたという。
さらに、教皇が最後の最後まで、「私はキリストの代理者です、キリストは十字架につけられたとき、降りずに、最後まで苦しまれました。私もそのようにして最後まで自分の使命を果たします」と話していたことも明かした。石野氏は、「哀れともいえる姿の教皇の、全身から発信する最後のメッセージは本当に強烈でした」と教皇の最晩年の姿を伝えた。
第2部では、ポーランド、クラクフのヨハネ・パウロ2世大学教授でドミニコ会司祭のヤロスワフ・クプチャク氏をゲストに迎えて、特別シンポジウムが行われた。基調講演は、クプチャク氏と、上智大学神学部教授でイエズス会司祭の小山英之氏が行い、その後、基調講演者の2人と千葉氏、石野氏によるパネルディスカッションが行われた。
先に登壇したクプチャク氏は、ポーランド人で、数十年前から教皇ヨハネ・パウロ2世の言説を研究している。第2次大戦下でのナチスの占領、戦後のソビエト共産主義による脅威にさらされたポーランド。その中で生まれ育った教皇は、20世紀が犯した全体主義の直接の証人者だと話す。
この日も、現代世界全体に大きな影響を与えた教皇の世界平和と戦争反対へのメッセージを「平和の礎」として、「ポーランド生まれの教皇ヨハネ・パウロ2世の教え――ポーランド・ヨーロッパ・世界の変動に及ぼした社会的・政治的影響」と題して講演を行った。
クプチャク氏は、「善きものとしての人間は、平和に仕えるべき存在であり、経済、社会、政治的解決にとっての基準となる」と述べ、平和に奉仕する者の文化には、「所有に対する存在の優位性」「技術に対する倫理の優位性」「ものに対する人の優位性」「物質に対する精神の優位性」の四つの基盤があると語った。
また、教皇が、「真の自由とは、自由に選択できることで、これは人間同士の関係において作られ、実現する」と述べていたことや、「価値を尊重しない民主主義は隠れた全体主義につながる」と語ったことなどを伝え、精神的価値の優位性を心に刻み込む必要があると話した。
歴史や社会構造、現代思想などを反映させながら、平和に奉仕する者の四つの平和の基盤について話した後、クプチャク氏は、教皇の平和へのアピールについて「自由を失うとはどういうことか、外国の占領下で暮らすとはどういうことか、そういうことを知った民族としてのアピールだった」と振り返った。「自らの価値、自分たちの文化を尊重するということは、他者の価値、他国の文化の尊重につながるのです」と力を込めた。
次に登壇した小山氏は、「教皇ヨハネ・パウロ2世の平和アピールと現代世界」と題して講演を行った。小山氏は、「宗教とは、原理的には平和を希求し、戦争に反対する。しかし、歴史上、宗教はさまざまな場面で、暴力を正当化するために使われてきた」と話し、このことはキリスト教でも例外でないことを313年のコンスチヌス帝までさかのぼり、戦争における「正当防衛」と「正戦論」がキリスト教会の歴史の中でどのように認められ、受け入れられてきたかを説明した。
それが、教皇ヨハネ・パウロ2世によって覆されることになる。1978年に教皇に選出された後の説教で、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)を引用し、平和は暴力によっては達成できないことを公言した。さらに、81年には「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と語り、過去に教会が認めてきた正戦論は、この時代では有効でないことを明言し、過去に対して公式謝罪を行った。
小山氏は、2000年3月に聖ペトロ大聖堂で教皇が、ユダヤ人や異端者、女性や先住民たちへの対応を含む教会の過去の過ちについて許しを願ったことを話し、その後、平和外交の中で行ってきた平和メッセージや、あらゆる戦争が誤りであるということを明らかにしたメッセージを紹介した。特に、2004年の「世界平和の日」メッセージで発したテロに対する画期的な発言は、今日頻発するテロに対して重要な意味を持っていると語った。
そして、「過去を振り返ることは未来に対する責任を担うことです」との「平和アピール」が発信された日本は、「国際紛争を武力によって解決しない」国として積極的な役割があると小山氏は話す。その上で、貧困や差別や人権抑圧などの構造的な暴力をなくし、紛争や戦争の原因を除去することに重点を置き、市民社会がもっと国連に直接関与し、重要な役割を果たしていくことを勧めた。
イベントに参加した大学3年の女子は、「ヨハネ・パウロ2世の平和へ深い思いを詳しく聞けてよかった。また、教皇が100カ国以上を訪問していたことを知り、他宗教との対話についても考えさせられた」と感想を語った。