「イスラム過激派」という言葉とともに、黒服に身を包んだ男たちが高々と武器を天に向かって掲げる様は、いつの頃からか、言葉と画がセットでテレビ画面や新聞紙上に現れるようになった。「過激派」といった言葉から、「過激な人たち」と曲解されがちだが、彼らの本当の素顔とは、どんなものだろうか。
16日、世田谷区にあるシェアハウス「Jam House 天照」では、3回目の「リレー講演会」として、2013年にシリアに渡り、イスラム過激派組織「ムハンマド軍」の一員として戦闘に加わった鵜澤佳史さんが講演を行った。鵜澤さんは今年2月、自身の体験をつづった『僕がイスラム戦士になってシリアで戦ったわけ』(金曜日)を出版した。
リレー講演会を主宰するのは、日本人のイスラム教徒、平井アーイシャさん。平井さんは、元アナウンサー。現在はナレーターなどをはじめ「声のお仕事」全般を行っているという。アロマセラピーに興味があり、「香り」に興味を引かれた頃、平井さんが初めに手にしたのは、キリスト教の聖書であった。
「『香り』に関する記述が多く、非常に興味を持った。聖書を読み進め、その後、イスラム教にも興味を持ち、コーランを読んでいくうちに、イスラムの教えに引かれ、約2年前、改宗した。キリスト教とは、多くのところで接点を感じている。神様に近づく方法が少し違うだけなのでは・・・」と話す。
リレー講演会を主宰することになったのは、「アットホームな空間で、講演者と聞く側が対話をしながら、知識を深めていく場が欲しかったから。今までは、イスラム教関係者が多いが、今後、リレーをつないでいくうちに、誰が誰とつながるかは、特にルールは決めていない」と話す。来月予定されている第4回目には、イスラム法学者の中田考さんが講演を行う。
今回の講演会には、会場がほぼ満席となる約30人が参加。鵜澤さんの話を熱心に聞いた。鵜澤さんが「戦い」を意識するようになったのは、彼の少年時代の経験にさかのぼる。小学生の頃に、壮絶ないじめにあったのだ。
いじめから不登校に、そして自殺願望さえも芽生え始めた。そんな時に出会ったハリウッド映画「プライベート・ライアン」には、戦いの現場がありありと描かれていた。一発の砲撃で人の体が吹き飛ばされる様子、銃撃を浴びて、無残な形で死んでいく兵士の姿・・・。戦争とはかけ離れた平和な国に住んでいる鵜澤さんの心に深く刻み込まれた。
それまでは、サッカーですら、人と戦うといった理由から「あまり好きではなかった」と話す。自殺願望から「自分をぶっ壊す」ことに焦点を当て、戦場という生と死がせめぎ合う場所に身を置くことで、八方ふさがりの今の生活から抜け出そうとしたのだ。鵜澤さんが12歳の時だった。
戦場に行くには、まず訓練が必要だと考えた鵜澤さんは、自衛隊に入ることを考えついた。中学の卒業資格があれば受験することのできる陸上自衛隊少年工科学校に目標を定め、猛勉強を始める。「合格するには、県内トップクラスの高校に入るだけの力が必要だ」と分かったからだ。十数年前当時でも、同校の倍率は20から30倍。かなりの難関であった。
中学を卒業し、無事、少工校に合格。晴れて自衛隊員になった。自衛隊員として訓練を重ねていくうちに愛国心が芽生え、「日本を守る」といった気持ちも高くなってきた。しかし、彼の頭を悩ませたのは、憲法9条であった。
9条では「戦力の不保持」をうたっているのに、日本は米国やロシアなどをのぞいても、諸外国よりもはるかに多額のお金が防衛費として注ぎ込まれている。そして、世界トップクラスのイージス艦や潜水艦を保持しているのだ。これのどこが「戦力」ではないのか・・・。
彼は、上官に食い下がった。「自衛官は、日本国憲法と矛盾した存在なのではないか。なぜ、武力で紛争を解決しようとしているアメリカに日本は追随しているのか・・・」。上官は押し黙ったままだったという。自衛隊のさまざまな矛盾に気付き始めた。
自衛隊では、良いことも悪いこともあったが、17歳の時には「食料安全保障」に興味を持ち始めた。日本は、食糧自給率が低く、万一、海外からの輸入がストップしてしまったら、日本は戦わずして多くの死者が出るに違いない。そう思った鵜澤さんは、食への関心を持ち始める。自衛隊は18歳の卒業と同時に退職し、翌1年間を受験勉強に充て、東京農業大学を目指すことになった。
農大在学時には、有機栽培で作られた野菜をリヤカーに乗せて販売するなど、一時は「ベジタブル王子」として、マスコミに取り上げられたこともあった。4年生になる頃には、売上も上々。事業を拡大しようと思えば、拡大もできた。しかし、それを清算しても、向かうべき場所が鵜澤さんにはあった。それが「戦場」だったのだ。
戦場に向かった理由について「自分を厳しい環境において、一種、自分への『挑戦』をすることで、弱い自分から脱却したいと思った。いじめられた経験は、10年以上たった当時でも、根深く自分の中に残っていた。それまで仲間だと思っていた友達から、とんでもない言葉を浴びせられ、大きなショックを受けた。居場所がなくなったような気持ちになった。自分がいた社会が、大きな意味での日本社会ならば、そこと対局にあるのが戦場だと思った。戦場に身を置くことで、自分は日本社会から脱却できると思った。『戦いたい』という気持ちは、自分自身の弱さの裏返しだったと思う」と話した。
「当時、南スーダン、ソマリア、シリアの3カ所で内戦が起こっていることを知っていた。その中でシリアは、ジャーナリストたちを中心に多くの情報が入ってくるので、シリアに行くことにした。『弱者のために戦いたい』との理由から、政府軍ではなく、反政府側の部隊に行こうと決めた」という。
トルコから国境を越えてシリアに入国し、ガイドを通じて、自分が戦うためにシリアに来たことを告げると、非常に驚いた様子だったが、すぐに外国人の多いムハンマド軍を紹介してくれた。ムハンマド軍は、イスラム教の教えを重んじる部隊だった。もちろん、イスラム教徒以外の者は、入隊することはできない。鵜澤さんは、シリアで改宗を決意。イスラム教徒になった。
部隊では、1日5回のお祈りが日常であった。著書の中で、イスラム過激派の彼らの素顔について、彼らは「戦うことが好きどころか、戦うことへの葛藤を感じながらも、アッラーのために戦い続けているようにみえた」と語っている。戦いの現場とはいえ、ほとんどの時間を甘いお茶を飲んだり、仲間との会話を楽しんだりと、穏やかな時間が流れるのだとも講演の中で話した。
そんな生活も3カ月を迎える頃、鵜澤さんがいた部隊にも、とうとう出撃命令が下った。武器を手に、鵜澤さんは戦場へ。自分の頭上を本物の銃弾が飛び交う。頭を少し上げれば、確実にそれに当たって死んでしまうだろう・・・。そんな場所だった。
幼い頃、思い描いていた「生と死がせめぎ合う場所」がそこにあった。長時間の銃撃戦の中、鵜澤さんは、装甲車からの砲撃で、足と目に重傷を負う。戦いが繰り広げられる中、逃げたいけど、逃げられない・・・そんな状態が何時間も続いた。
身を隠していた場所に、自らの命も顧みず助けに来てくれたのは、やはりムハンマド軍の戦士たちであった。最前線から離脱した鵜澤さんは、そのまま病院へ運ばれた。重傷であったが、野戦病院のようなところで足の手当てを受けた。
入院している彼を献身的に看病してくれたのも、同じ部隊の仲間たちであった。毎日のように見舞い客も訪れた。「困っている誰かの手助けをするのもイスラムの教えだ」と説明する。
足の手当てを受けた後、目に違和感を覚えるようになった。命懸けで自分を救出し、献身的に看病してくれた仲間たちを思って、すぐにでも戦線復帰をしたかったが、隣国トルコの病院で検査をすることになった。
検査の結果は、両目の奥に砲弾の破片が入っているというものだった。トルコで手当てをすることはできず、日本に帰って手術を受けるのが、失明を回避する唯一の方法のようだった。
大きな敗北感と虚無感を抱えて、シリアのムハンマド軍の拠点に戻った。拠点に戻り、司令官に「目を手術しなければならないので、一度、日本に帰国したい」と話した。入隊して3カ月、早々に負傷し、何の成果も出せないまま、ただ軍の世話になったことを申し訳なく思っていた。
しかし、司令官は、「トルコの病院でかかった治療費、交通費、それに食費、日本に帰国する旅費はいくらかかるのか」と鵜澤さんに聞いた。事態がよくつかめなかったが、概算を告げると、「その半額をムハンマド軍が出す」と言って、現金を差し出した。
当時のムハンマド軍は、武器も満足に買えないほど、経済状態は良くなかった。日本に帰国して、軍に戻ってくるかどうかも分からない日本人に、このような心遣いをしてくれる司令官に、鵜澤さんは心からのお礼の言葉として「あなたにもアッラーの恵みがありますように」と告げた。「アッラーの名のもとに仲間を思いやる純粋な彼らの気持ちに心から感動した」と著書に書き記している。
帰国後は、「日本のなにもかもが平和に見えた」という。2014年に帰国して、数カ月がたった頃、警視庁がシリア行きを企てていた北海道大学の学生の家を家宅捜索したというニュースが飛び込んできた。それを機に、鵜澤さんは一気にメディアから注目されるようになった。すでに「イスラム過激派」の戦闘員となって帰ってきた日本人として・・・。
各メディアからの取材は、来る日も来る日も同じような質問ばかりだった。犯罪者を見るような目で取材をする記者も多く、心身共に疲弊したという。
その後、彼を待っていたのは批判、誹謗中傷の嵐だった。彼は誰かを殺したかったわけではないのにもかかわらず、メディアは好戦的かつ狂信的な人間としてのイメージをあおった。
「日本は戦争の現場から遠い。僕が危惧するのは、必要以上にイスラム過激派の偏った報道によって『恐怖心』があおられることだ。『イスラム過激派=悪』で『世界の警察アメリカ=正義』なのか・・・。アメリカ軍が仕掛けた空爆で、何千、何万の無垢の市民が犠牲になっている。しかし、アメリカが戦争責任を問われることはなく、メディアでそれらが報道されることもない。現在のシリアは、政府軍、反体制派、IS(イスラム国)によって、三つどもえの戦いになっている。混迷を極めるシリアでは、どこの勢力が勝利しても、理想的な結果にならないように思える」と話した。
出版後、10代、20代の若者から、「僕も鵜澤さんのように、シリアに行って戦いたい」といった相談が多くあるのだという。鵜澤さんは、このような青年たちにきっぱりと「僕が言うのも違和感があるかもしれないが、『行くべきではない』と話している」という。「戦争って、誰も得しない。誰も幸せにならない。必ず犠牲者が出る。そうなる前に、あらゆる手段を尽くすことが必要」と、講演後のインタビューに答えた。
鵜澤さんは、大きなけがを負ったが、人を殺(あや)めたわけではなかった。しかし、多くの仲間たちの死を自らの目で見てきている。現在でも、悪夢にうなされ、戦場の光景がフラッシュバックするときもあるという。そのトラウマは、鵜澤さんの心の中に大きな傷として残り、彼を苦しめている。
彼の「好戦的」「狂信的」なイメージを、メディアはどうやって演出したのだろう・・・と思うほど、彼は非常に礼儀正しい好青年であった。冗談を言えば、大きな声で笑い、一人一人の質問にも丁寧に答える。彼は現在、企業で営業マンとして日夜忙しくしているという。しかし、「いつの日か、シリアで虐げられている子どもたちを助ける活動をしてみたい」と話した。