インドネシアで、茄子を栽培する
こうして、幾たびか試練をくぐり抜け、絶望するたびに神の御手に捕らえられ、新しい道を示されてきた私は、家族の救いをこの目で見ることができ、息子と娘は祝福のうちに成人して、それぞれの道を歩み始めました。
その後、私の事業も恵まれ、順調に発展していきました。大龍での冷凍食品の開発や、幾つかの店の顧問、料理学校の講師やテレビ出演も相変わらず続いていました。この頃になると、私のことを「味の開発人」と密かに呼ぶ人もいて、自分自身ライフワークとしての「味の開発」にそれこそ心血を注ぐ毎日でした。
料理の味を極めるために――少しでもおいしい料理を一般の人に味わってもらうためにはどうしたらいいのか? 調味料をどう使ったらいい味が出るのか?――毎日、頭は味の研究でいっぱいでした。
1992年。私が48歳の時でした。当時は、冷凍食品の中でも茄子(ナス)を使った食材がよく売れ、とても人気がありました。中でもわが社で作った「麻婆茄子(マーボーナス)」はとても好評だったのです。それで、私は茄子を大量に仕入れたいと考えました。
面白いことに、茄子というものは、夏場はとても安く手に入るのですが、夏場を過ぎるととても高価なものになってしまいます。人気があって売れる食材が、必ずしも夏に売れるとは限らないのです。一年中「麻婆茄子」が売れるようにするためには、一年中安い茄子を仕入れなくてはなりません。
そこで、私たちは考え抜いた末、次のようなプロジェクトを立ち上げました。私たちの会社に出入りしている会社と共同開発で、インドネシアに茄子の種を持って行き、そこで栽培し、作った茄子を現地の工場でカットしてフライにし、それを冷凍して日本に持ってくる――というものです。
私たちは、何もないところからインドネシアに旅をし、現地のスタッフと一緒に種をまき、実がなるのを待ち、茄子がなった時点で工場に購入し、選別し、カットし、それから温度を決め、鍋の大きさ、一度に揚げる量などを決めてから、現地スタッフと一緒に茄子を揚げました。こうして、日本で茄子が一番高い時期に、インドネシアで作った茄子がコンテナで日本に運ばれたのです。
この時、私たちは慣れていないためにいろいろと失敗をしました。まず茄子を植えるときに――農家の人たちは分かるでしょうが――茄子というのは風に揺れるために木と木の間の間隔があまり狭いと茄子同士がこすれ合い、傷んでしまうのです。
インドネシアの人はたくさん作ろうとして木と木の間の間隔を狭くして植えたのです。そのため、茄子は傷んでしまって使いものになりませんでした。それが分かってからは、木と木の間を広くあけるようにして、素晴らしい茄子を作ることができました。しかし、これができるようになるまでには少し時間がかかりました。
次の失敗も忘れることができないものでした。こうしてやっと茄子を揚げて冷却、冷凍して日本に運ぶことになったのですが、待ちに待った茄子がやっと港に着き、コンテナを下ろして検品しようとしたときでした。何かワインのような香りがコンテナから漏れてきたではありませんか。
「これは茄子のコンテナですか?それともワインのコンテナですか?」。そう言って、私たちはコンテナを開き、びっくりしました。冷凍で送ってくるはずの茄子が、現地の会社の事務員の手違いでマイナス20度という伝票の所にプラス20度と記入されていたのです。それで冷凍で来るはずの茄子が温められ、発酵してワインのような香りを出したのでした。
もちろん、コンテナの茄子は全て使いものになりませんでした。私たちは日本で茄子の注文を出していなかったので、インドネシアから来た茄子がだめになったことでとても落胆しました。すると、インドネシアの会社の社長は大急ぎでもう10トン追加させ、日程が間に合わないというので飛行機で送るよう手配してくれました。
その飛行機は直接日本に来るのではなく、一つの国を経由して日本に来ることになりました。ところが、一つの国を経由することは、時間がたちすぎるので冷凍として認められないということで、残念ながらその茄子も使うことができませんでした。
こうして、段取りもせず、注文もせず、一番茄子の値段が高いときに、私たちは必要以上の経費をかけて、日本で茄子を調達せざるを得ないことになったのでした。本当に「失敗だらけの茄子作り」でしたが、今では懐かしい思い出となっています。
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