酒と縁が切れた日
本当に不思議なことでしたが、弟とその家族が日本を離れ、カナダに帰ってしまった後も、私に酒が必要でなくなったのでした。それまで私は大酒飲みで、誰ともよく付き合い、そしてどこに行ってもよく飲み、1軒、2軒、3軒とはしごすることも全然苦にならなかったのです。
朝まで飲み歩いてよく付き合いをし、酒の量も半端でない。そんな私が、いきなりその10日後には全く一滴も飲まないというようになってしまったので、誰も信じようとしませんでした。
当時、私は大龍の顧問をしていたのですが、この大龍の社長という人もまた酒が大好きな人でした。客が来るたびに、また会社の社員旅行があるたびに私たちは一緒に酒を飲み、2軒、3軒とはしごをすることは始終でした。それは変わらなかったのです。
しかし、それから10日後に、私が一滴も酒を飲まなくなったということを聞いても、社長は信じようとはしませんでした。いや、会社の誰も信じようとしませんでした。
私は、宴会であっても、社員旅行であっても、会社の付き合いであっても、全てにおいて酒を飲まなくなってしまったのです。でも、私が本当にもうお酒を飲まないのだということを認めてもらうのには1年半かかりました。
1年半後に社長が、「ああ、もうこの人はお酒飲まないんだ。勧めなくていいよ」。やっとそう言ってくれるようになったのでした。
もう一つ感じたことは、私は夏になると泳ぐことがとても好きだったのですが、酒を飲むと体がとても重いのです。悪酔いはしなかったものの、少し飲み過ぎると、次の日は二日酔いということになります。
そうすると、体がとても重い。その時は朝になると、「ああ、今日はお酒を少しやめよう。お酒を少し我慢しよう」と思っても、また夜になるとついつい飲んでしまう。これは酒を飲む人の悪い癖なのです。だから、体はいつもアルコール漬けで重いというわけなのです。
その体の重さを感じていた私が酒をやめて、体から酒の毒が抜けて本当に体が軽くなって泳ぎやすいと感じるようになったのは、半年以上たってからでした。実に、酒というものが体に与える負担はすごいものだとその時感じた次第です。
こうして、私は弟の家族によって本当の愛というものを知らされ、その中で酒から解放されて、家族のためにいろいろと努力するということが生き甲斐になってきたのです。
そして、この時、自分が完全に酒と縁を切ることができたということを知りました。自分の力で40日間酒をやめたのですが、それから先は弟の祈り、母の祈り、そして神の導きで酒のいらない体になったということは、本当に喜ばしいことで、これをもって自分の「証し」としたいと思います。
もう酒から解放され、不自由から解放され、酒なしの時間が過ごせるのです。以前よく一緒に飲みに行った友達からこう言われます。
「もう酒を飲まないのか? じゃあ、何の楽しみがあるんだ?」。飲まなくても楽しみはたくさんあります。飲まずにいられない人というのは気の毒だと思います。
私は友達とも、以前の会社の仲間とも付き合います。その場合、こちらはウーロン茶、向こうはアルコール。彼らは、初めはおいしそうに飲んでいますが、2軒目になると少しつらそうになってきます。
そして、3軒目になると、もう惰性で飲んでいるのが見えてきます。そして、帰り際にこう言いました。「いいなあ、君のように飲まなくて済むならば」
そして、4軒目になりました。もうおいしさよりも、勢いで飲んでいるような感じが見えてきました。酒が体に与える負担というものは大変なものなのでしょう。本当に自分がお酒を飲まない生活になったことを心から感謝しています。
ギャンブルについていうと、私は、マージャンはしなかったけど、パチンコはよくしていた記憶があります。博打(ばくち)というものは信仰生活にとってはよいといえません。
タバコだけはあまり体に合わなくて、特に味に影響するので吸いませんでした。それは味を決める生活にとって大変良かったことでした。
このような、人生を狂わせてしまうような賭けごとから守られたことを本当に感謝しています。ただ、妻に対しては申し訳ないことをいろいろしてきました。子どもを大切にし、妻を大切にする――そのような私ではありませんでした。
仕事と、自分勝手な生き方をしてきた私は、ある日、妻の前で悔い改めの謝罪をしたのでした。妻は子育てをし、家をよく守り、そういう点ではずいぶん苦労をかけました。
子どもを育てる上でも、私は仕事一辺倒の人間でしたから、子どもの面倒もよく見ず、気を配ったこともなく、子どもを連れてどこかに行くということもなかったのです。妻はよく子どもの面倒を見、子どもの教育や全ての面で細かい気配りのできる素晴らしい人でした。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。