切支丹(キリシタン)屋敷跡(都指定旧跡)とされる文京区小日向一丁目東遺跡(東京都文京区)で、2014年7月に3体の人骨が出土し、調査が進められていた。そのうちの1体が、DNA鑑定や埋葬法などの分析を総合した結果、禁教時代のイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(1667~1714年)である可能性が高いことが判明したと、文京区教育委員会が4日、発表した。シッドチは、徳川6代将軍に仕えた新井白石が尋問し、『西洋紀聞』などにまとめたことで知られている。
キリシタン屋敷は、鎖国禁教政策のもとで、キリスト教の宣教師や信者を収容していた屋敷だ。島原の乱(1637~38年)の5年後、筑前に漂着したイタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラ(~1685年)ら10人がすぐに江戸送りとなり、伝馬町の牢に入れられたことをきっかけに、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建てて収容所としたのがキリシタン屋敷の起こりであるとされている。1792年の宗門改役の廃止まで使用され、20人のキリシタンが収容されたと記録に残っている。
集合住宅建設に伴い、キリシタン屋敷跡のある小日向町1丁目23番は、埋蔵文化財発掘調査が行われていた。発見された人骨の1体は、国立科学博物館によるミトコンドリアDNA鑑定で、西洋系男性、現在のトスカーナ地方のイタリア人のDNAグループに入ることが判明、さらに人類学的分析で、中年男性、身長170センチ以上であることが判明した。
キリシタン屋敷に収容されたイタリア人は、2人の宣教師しかいないことが明らかになっている。キアラとシドッチだ。この2人のうち、文献史料にある「47歳で死去、身長5尺8寸9分(175・5~178・5センチ)」というシドッチに関する記述が人骨の条件に当てはまったのだ。
この人骨がシドッチのものである可能性を高めるもう一つの根拠となったのが、その埋葬法だ。文献史料によれば、シドッチはキリシタン屋敷の裏門の近くに葬られたとされている。今回発見されたイタリア人人骨の出土状況は、シドッチ埋葬についての記述と一致し、棺に体を伸ばしておさめる(右下側臥位半伸展葬)ほぼキリスト教の葬法に近い形で土葬されていたという。一方、84歳で死去したキアラは、小石川無量院で火葬されたと記録に残っている。
この埋葬法の違いは非常に興味深い。というのも、同じイタリア人宣教師でありながら、この2人が日本でたどった道は全く違うものであったからだ。キアラはキリシタン屋敷に禁獄中に転向し、岡本三右衛門と名を改めて、幕府の禁教政策に協力、比較的優遇された生活を送った(遠藤周作の『沈黙』のモデルになったといわれる)。一方、シドッチは禁獄中にあっても伝道したために、悲惨な死を迎えた。
現代の日本人の多くは、火葬して遺骨を墓に入れるという埋葬法が当然と思っているし、それが社会状況に比重をおいた戦後の文化であるということを意識している人はほとんどいないだろう。だが、世界の埋葬法を見れば、火葬、土葬だけなく、鳥葬、風葬、舟葬、樹木葬、樹上葬、ミイラ葬、水葬、犬葬、と非常に多様で、葬儀のあり方まで見てしまえば、国ごと、文化ごと、時代ごとに違いがある。
線引きするのは非常に困難だが、日本で当たり前とされる火葬が、むしろ世界的には少数派であるというのは間違いない。それは社会状況だけでなく、人々の宗教観が大きな影響を与えているからで、もっとも一般的なのは土葬だ。特に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の文化圏は、共通して土葬する伝統を持つ。
これらの宗教では、火葬を忌み嫌う傾向にある。イスラム教では、火葬は火あぶりと同じと見なされ、地獄に落ちたものだけが受ける拷問であるとされている。キリスト教では、特にカトリックでかつて「火葬せよとの遺言はこれを執行してはならない」と教会法に定められ、火葬が背教のように見なされていた。第二バチカン公会議において火葬も教義に反しないとされ、事実上は火葬も解禁となっているが、いまだに土葬を願う声が多い。
戦前までは、日本においても伝統的な屈葬による土葬が一般的だった。死体の手足を折り曲げるのは、死者が悪霊としてよみがえり、悪さをしないようにしたという説、もしくは母胎にいたときと同じ姿勢をとらせることによって再生を願ったという説がある。
仏教の伝播とともに、火葬も土葬に平行して行われてはいたのだが、火葬には燃料と労力がかかるという問題点や、仏教以外からの声があったからだろうか(明治時代には神道からの反対論により、2年間、政府から火葬禁止令が出されたことがあった)、一部の仏教関係者を除いて、日本人に広く受け入れられていたのはやはり土葬であったようだ。
シドッチが体を伸ばして棺におさめられ、土葬されたのは、彼がキリシタンとして死んだことを意味している。1706年に屋久島に上陸したシドッチは「伝道の目的を重んじ、伝道用祭式用の物品をたくさんに携帯し、食料品よりもその方を多く持って上陸した」といわれるほどに、日本での伝道を強く願っていた人物だった。だが、念願の日本にたどり着いた直後に捕らえられ、死ぬまで江戸のキリシタン屋敷で獄中生活を送ることになった。
幸い、白石との出会いを通して、キリスト教をはじめ、地理学、欧州情勢など自らの持てる知識を伝える機会を得、『西洋紀聞』『采覧異言』という形でその確かな爪痕を残すことになった。白石の取り計らいによって、それなりの待遇を受けていたシドッチだが、その目的を忘れてはいなかったようで、身の回りの世話をしていた役人夫妻を入信させたことで地下牢に閉じ込められ、亡くなった(死因については病死、餓死など諸説ある)。
白石の研究で知られる故・宮崎道生氏は『新訂 西洋紀聞』(1982年、平凡社)の解説文で、シドッチの死について「教皇から与えられた日本布教の復活という使命は果たしえなかったけれども、日本におけるその獄死は一見不幸のように見えて、実はそうではないと私は考える」と述べている。目標地であった日本に到達できたこと、幕府の要人である白石との魂の交流を通して、白石から尊重され、自らも日本を高く評価するに至り、わずかであっても2人の日本人を入信させた上で死んだことを指摘し、「シッドチにとってはむしろ本望だったと解してよいかと思う」としている。
キアラも、最後にはやはり信仰に立ち返ったのでは、と疑わせる記録も残ってはいるのだが、それも今となっては定かではない。
だが、悲惨な死であったにもかかわらず、シッドチの埋葬された場所に、墓石の代わりに十字の碑が建てられたと伝えられているのを聞くとき、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」という聖書の言葉が思い浮かびはしないだろうか。この歴史的な発見を通して、数百年前にこの日本で信仰を貫き通した先人に思いをはせたい。