日本人で初めてエルサレムに行き、ローマで司祭となった福者ペトロ・カスイ岐部(1587~1639年)の出身地である大分県国東市では、2015年度に「国東市内キリシタン墓現況調査検討委員会」を設置し、これまでキリシタン遺物と見なされてきた市内の石造物などの学術検証を進めてきた。
今年1月、専門家らによって8地区16カ所の遺物の現地調査結果が「明確なキリシタン墓は発見に至らなかった」と報告されたことを受け、調査対象となった遺物を観光資源として紹介していた同市やオラショ巡礼の道実行委員会は、内容を修正することを決定した。同委員長を務めた大石一久氏(元長崎歴史文化博物館研究グループリーダー)は、「専門的な学術検証なしにキリシタンに関わる観光コースを設定している」事例が日本各地で見られるとし、「憂慮すべき問題」と警鐘を鳴らしている。
同市とキリシタンとの関わりは、1585(天正13)年、大友宗麟の家臣であった浦辺地区のロマノ岐部が入信し、その一族家臣144人が受洗したことに始まる。ロマノ岐部とマリア波多夫妻の間に生まれたペトロ・カスイ岐部は、1620年にローマで司祭に叙階され、イエズス会に入会した。
「生まれは豊後国浦辺」という記録が残されていることからも、同市とキリシタンの接触が事実であることは間違いない。だが、その後岐部氏が国東を離れているため、禁教期にどれだけのキリシタンが同市に存在していたかは不明で、その裏付けとなる文献もないことから、市内の石造遺品が注目されていた。
特に、今回の調査対象となった石造物の一つ、櫛来(くしく)地区にある通称「INRI祭壇石」は、「魚」の絵、「INRI」の刻印が見られることから禁教令以前のものとされ、1998年の発見当時には、学術的に貴重な発見と新聞などで大きく取り上げられた。
しかし、今回の調査でこの石造物の採拓が実施され、意匠や銘文が魚の絵でもINRIの銘でもなかったことが判明した。発見された当初に拓本を採らず、目視で結論付けた結果の大きな過ちであろうと推測されている。
同委員会の調査報告によると、同市は古代より多くの遺跡が残され、特に中世以降は六郷満山に展開する習俗や民族が複雑に入り組み、江戸時代の禁教令の影響もあって、その中からキリスト教信仰の痕跡を見つけ出すのは非常に困難なことだという。
例えば、魚などは十二宮信仰のシンボルでもあり、また十字印も妙見信仰では北極星を意味するため、庚申塔などによく刻まれる。こうした、キリシタン意匠と似たキリスト教とは無関係の意匠の是非には特別な注意が必要だといい、誤ってキリシタン遺物として紹介されてしまっている事例も日本各地にあるのだという。
INRI祭壇石も、ペトロ・カスイ岐部神父記念公園(国東市)と聖フランシスコ・ザビエルの聖遺物がある大分トラピスト修道院(速見郡)をつなぐ全111キロの「オラショ巡礼の道」というウォーキング・コースにおいて、ルートを結ぶ重要なスポットの一つに組み込まれていた。
大石氏は今回の調査報告に当たり、「これまでのキリシタンブームが民間から起こったものであるのに対し、現代のブームは『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の世界遺産推進運動に見られるように公共団体が率先している。非常に喜ばしいことである一方、観光客誘致と結びついて、専門的な学術検証なしにキリシタンに関わる観光コースを設定したりと、大きな問題を引き起こしている事実がある」と総括を述べ、「キリシタン遺物といわれてきたものが本物か偽者かを審議し、かつあらたにキリシタン遺物と認められるものがあるかどうかを検証した同市の取り組みは高く評価されるものと確信する」とその意義を認めた。