女優や落語家としてテレビや舞台などで活躍中の露のききょう(本名:新居由樹)さん。近年は各地の教会で福音落語を上演したり、落語好きの牧師と共に、大阪クリスチャンセンターなどで「ゴスペル落語会」を行っていることで知られる。
妹の菅原早樹さんは西宮北口聖書集会の正教師。「おしゃべり賛美家」として賛美歌を通しての伝道を行っており、これまで4枚のCDを出している。
2人の父は、上方落語の復活と隆盛に大きく貢献し、上方落語協会会長などを歴任、紫綬褒章・旭日小綬章を受章するなど、関西落語会の巨匠として知られた落語家の露の五郎兵衛(本名:明田川一郎、1932~2009年)だ。父もまた晩年、妻の紗英さんと共にキリスト教の洗礼を受け、教会で"ゴスペル落語"の講演を行った。「蘇生の息子」という新作落語もつくっている。
日本の古典芸能とキリスト教、ちょっと不思議に思えるこの二つが結び付いた"クリスチャン噺家(はなしか)一家"の歴史。キリスト教の"土着化"という視点から見ても、実に興味深いエピソードがいっぱいだ。
明晰(めいせき)な言葉で冷静に話す妹の早樹さんと、ほがらかでおっとりと話す姉の由樹さん。二人が双子とは、教えていただくまで気が付かなかった。
「昔から私と妹は『和』と『洋』、『陽』と『陰』なんですよ」と由樹さん。でも会話が始まると、「それはね」「いやちゃうて」。絶妙な合いの手を入れ合いながら話がはずみ、なるほど確かに双子だ! と気付かされる。
由樹さんと早樹さんは1962年9月13日、2代目桂春団治門下、桂小春団治(当時)の家に双子の姉妹として生まれた。「父は幼い頃、戦争で苦労し、家庭環境にも恵まれなかったので、家族で仲良くすることをとても大事にしていました」と由樹さん。父の著書『五郎は生涯未完成―芸と病気とイエスさま』(いのちのことば社、2005年)を読むと、喜びが伝わってくる。
「子どもが生まれる、しかも二人いっぺんに、となると、私は奮起した。(中略)働きに働いた。子どものことを考えれば、どんなに働いても楽しく、やりがいがあった」「1962年9月13日、サクランボのような女の子が生まれた」
出産当日、父は道頓堀の高座に出演していた。その時にできたネタが「出産風景」だった。ベビーカーは先輩桂米朝から譲られたおさがりだった。
父、露の五郎兵衛の生い立ち
父(本名:明田川一郎)は、著書の冒頭、人生で5回の命拾いをしたと書いている。1回目は1944年、13歳の時、中国の福建省で米軍機の機銃掃射から逃げていたときのこと。手を引いていた下級生は、弾が当たり死んだ。わずか50センチが生死を分けた・・・。
実の父(姉妹の祖父)は生まれる前に失踪し、顔も知らなかった。7歳の時、母は再婚して家を出奔、祖母に育てられた。祖母は京都で小唄や三味線などを教える「けいこ屋」の師匠だった。実家は撮影所の近くにあり、子役で映画に出演したこともある、芸能の世界に囲まれて育った。一家で中国に渡ると、祖母と共に軍隊の慰問団として各地を回り、子どもながら森の石松を演じ「あきれたぼういず」の音曲漫才を歌ってかわいがられた。終戦を迎え、広州からの引き揚げ船の中でも浪曲や音楽ショーを演じて食べ物を稼いで食いつないだという。
13歳で命からがら帰国して芦乃家雁玉(がんぎょく)率いる「コロッケ劇団」に入団、雁之助と小雁は兄弟弟子、「大阪にわか」を演じた。「にわか」は、現代の吉本新喜劇等のお笑い劇の原型とされる、歌舞伎や文楽のパロディーから始まった即興劇のことだ。
少年役者として公演を回る中で、上方落語の大スター2代目春団治からスカウトされ、15歳で弟子「桂春坊」となる。その後「桂小春団治」を経て、1968年には「2代目露の五郎」を襲名、関西では売れっ子落語家となった。
由樹さんと早樹さんの少女時代
由樹さんと早樹さんは、小学生の頃から父についてなんば花月や吉本の劇場の楽屋に出入りすることも多かった。怪談話の時は、火の玉や照明などの裏方を務めた。
「当時、間寛平さんが木村進さんとコンビで売り出し中で、女の子にすごい人気でした。劇場の出口でファンがたくさん『出待ち』をしているところに、小学生の私たちが『おはようございまーす』と楽屋に出入りしたりして、子ども心にそういうのが快感だったんですね(笑)。今思うと鼻もちならない子どもだったから、学校ではいじめられることもありました」と早樹さんは言う。
「父はテレビの人気番組『お笑いネットワーク』や、大阪では藤本義一さんが司会の『11PM』のHなコーナーにも出てたから、父と電車に乗ってると『おいおいあそこ乗ってんの11PMの露の五郎ちゃうか!」と言われて恥ずかしかったときもありました(笑)」と由樹さん。
母の紗英さんも父方の本家が貸和楽器屋さんで歌舞伎・文楽・宝塚OSKなどに出入りしていたため、芸事好きの一家だった。
落語家の家庭
落語家の家庭とはどのようなものなのだろう?
「家には内弟子さんもいました。すぐに落語など教えてはもらえない。朝起きてから師匠が寝るまで身の回りの世話や家事手伝い、ご飯をよそったり、気配りしつけを学ぶんですね。落語には男の人も女の人も出てくるから、全ての日常生活を体験するのが修行なんです。師匠がカラスが白いと言ったら白いという絶対の世界、上下関係や口のきき方まで厳しい芸界の常識を叩き込まれるんです」
「クリスチャンになるまでは『自分が神様だ』といつも言っていました」
父の著書にもこんな言葉がある。「私は、人生を自分の力で切り拓いてきたという、強い自負がある。頼るものは自分だけという経験が、骨身に沁みているのだ。戦中もそうであったし、戦後も、落語家になってからも、それは変わることはなかった。もし神がいるなら、自分こそ神であり、何か事が起こって神頼みが必要になれば、我が身こそ頼るべきものであった」
同時にこんな側面もあったという。「『目標を持ちなさい』とずっと言われ続けました。『自分が何をしたいのか』『何が向いているのか?』、『身の丈』や『身の幅』を考えることを仕込まれたように思います。お芝居と違って落語はすごく自由だけど一人だから、ボケが得意かつっこみが得意か、笑いも自分の強みをよく知っていないとだめ。それは子育てにも芸能にも当てはまると考えていたのだと思います」と由樹さん。
女優を目指した妹と、漫才を始めた姉
妹の早樹さんの夢は女優だった。子どもの頃から歌もバレエも大好き、時代は『ベルばら(ベルサイユのばら)』ブームの真っ盛り。最初は宝塚歌劇に憧れたが、腰を痛めて断念、「ちょうどその頃『奇跡の人』を見て新劇の女優になりたいと思ったんです」。高校3年の時に関西の劇団の養成所に入り、高校卒業後は東京の舞台芸術学院に入学した。
「子どもの頃から『属格』がいやだったんです。どこにいっても『双子"の"妹』『露の五郎"の"娘』、必ず"の"で見られていたから『私を見て』という自己表現欲求が大きかったんですよね。神様なら私だけを見ていてくれる。クリスチャンになったのもそれがきっかけだったのだと思います」と早樹さんは言う。
一方、姉の由樹さんは、リウマチ熱などの持病があり、体が弱くのんびりした「和」の性格。小学生の時から東映の時代劇が大好き、日舞・お茶・お華の先生だった祖母から習い事も仕込まれた。「時代劇を舞台でやれたらいいなぁとずっと漠然と思っていました」
演劇の世界に燃える妹を片目に、進路を迷っていた高校3年生の時に訪れたのが「漫才ブーム」だった。紳助(島田紳助)・竜介、B&B、ツービートなどなど。妹同様演劇の養成所には通っていたが、違う行き方もあるのではないかと、父の弟子で日本最初の女性落語家の露の都さんと漫才コンビ「ちんちくりん」を組んでデビュー、ジャンジャン横丁の新花月の舞台に立った。
「父も役者になりたくて、お笑いでも売れたら映画に出られると思ったそうですが、私も同じで売れたらエエ! と思ったんですが、漫才ブームも下降気味だったんですね。結局半年で解散しました。私はわりと流動的で、でも流された先でそれがずっと続いている。それも神様の導きなんでしょうね」と由樹さん。
その後、女優を続けながら結婚して子どもを2人産み、あらためて父に落語家として弟子入りしたのは37歳の時だった。
弟子の立場から見た父は、どうだったのだろうか?
「娘に稽古をつけるのは『照れ』があったみたいです。あまりちゃんと稽古をつけてはくれませんでした。でも私は門前の小僧的だったようで、いつも『そんなもんや、そんなもんや』と何とか及第点をもらっていました。しつけの面では子どもの時から厳しく言われていたので、あらためて言われることはありませんでした。子どもの時に『お前たちができていないと弟子を叱れない』とよく言われたのは、牧師さんの家の親と子どもの関係に少し近いかもしれないですね(笑)」
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