太平洋戦争中、国内最大規模の捕虜収容所であった「福岡俘虜(ふりょ)収容所第2分所」の犠牲者を追悼する記念碑の除幕式が13日、長崎市香焼(こうやぎ)町の同収容所跡地で行われ、犠牲者を追悼するとともに、キリスト教や仏教関係者らにより平和を願う祈りがささげられた。同収容所は、先の大戦で捕虜となった連合軍兵士を、多い時には約1500人も収容していた。ここで亡くなったオランダ、英国、オーストラリア、米国の捕虜計73人の名前と、「国際条約に反した過酷な扱いにより」の文言を含めた記述のある追悼碑、また戦後すぐに救援物資を同収容所に運んでいた米軍機の墜落事故で死亡した米兵13人の記念碑も共に除幕された。
当時、日本各地には同様の捕虜収容所が130以上あり、多くの捕虜が過酷な労働に従事させられていた。同収容所では、初代所長が戦後牧師となったクリスチャンの故調正路(しらべ・まさじ)中尉であったため、クリスマスには捕虜と共に礼拝をささげ、所内の扱いも人道的であったが、彼が移動させられた後は劣悪な環境になっていった(詳細は、林えいだい著『インドネシアの記憶』)。この日の式典には、調牧師の息子も参加していた。
この記念碑の建立は、ある地元のタクシー運転手と英国人ルポライターの出会いから始まる。1995年、英国から収容所跡地を訪ねてきたルポライターのスタンリー・ガイさんを乗せたタクシーの運転手、小松朗さんはこの時初めて収容所のことを耳にした。その後も、収容所跡地を訪れるさまざまな捕虜関係者から収容所のことを尋ねられ、跡地に記念碑を建てることを思い立った。記念碑建立のために奔走するが、行政の壁に阻まれ一時は断念する。しかし、この話を知った当時市議会議員であった井原東洋一氏(記念碑建立委員会副代表)が動き、この日を迎えた。70年前のこの日はちょうど、捕虜たちが母国に向け香焼を発った日でもあった。
式典には、同収容所のオランダ人元捕虜ヘンク・クラインさんをはじめ、関係者ら約20人が来日して参加した。中には、自身もインドネシアにあった日本の民間抑留所に入れられ、父親が香焼の収容所で事故死したというオランダ人男性もいた。
また、5歳の時に同じくインドネシアの民間抑留所に入れられたオランダ人女性ハンネッケ・コーツさんは、8年前に赦(ゆる)すことを学び、やっと過去の呪縛から解放されたと話した。コーツさんが収容されていたのは、バタビア(現在のジャカルタ)にあったティデンという名の民間抑留所で、その時の栄養失調のために背骨や足の骨が曲がり、痛みはいまだにやまないという。コーツさんは、今回来日して、長崎の原爆資料館も訪れた。資料館で多くの人々の苦しみを見、申し訳なくお詫びをしたいと思ったという。この記念碑の建立のために尽力した記念碑建立委員会の朝長万左男(ともなが・まさお)代表や、井原副代表もまた被爆者である。
終戦直後の1945年9月には、同収容所への救援物資輸送のため飛来した米軍機B29が近くの山腹に墜落し、14人中13人が死亡する事故が起きた。唯一の生存者の家族も今回来日し、瀕死(ひんし)だった父親を山からふもとまで運んで手当てしてくれた村人たちと会い、感謝の気持ちを伝えることができた、と喜びに溢れていた。
終戦から70年がたったとは言え、戦争の傷痕は次世代に至るまでいまだに及んでいる。英国からの参加者に筆者が個人的に謝罪すると、涙を浮かべて受け取ってくれた。国家間の和解もまずは個人から始まることを、今回の除幕式で身をもって感じた。