1998年10月16日、Sさんはいつもと同じように朝を迎えた。妻に見送られ、買ったばかりの都下のマンションからいつもの職場へ。手には、いつものかばんと前日の飲み会で上司から預かった書類の入った紙袋、帰りがけにジムに寄ろうと、Tシャツを入れたスポーツバッグ、さらに雨の予報を聞いた奥さんに持たされた傘。文字通り「両手いっぱい」の荷物だった。満員の通勤電車に乗り込み、20分ほど揺られ、乗り継ぎ駅の反対ホームで待つ電車に乗った瞬間、突然後ろから誰かに腕をつかまれた。振り返ると、そこには見知らぬ若い女性がいた。訳が分からずにいると、「あなた、触ったでしょ!?」と思い詰めた表情で訴えている。「この荷物ですよ。触れる訳がない」と、両手を見せるが、女性は既に駅員を呼び、必死に訴えていた。「ここでは話もできませんし、列車運用の支障にもなりますから、事務室へどうぞ」と駅員に促され、Sさんはそれに従った。
「駅の事務室に入ってからは、まるでベルトコンベアに乗せられたように、痴漢の犯人に仕立てられて行きました」と述懐する。駅員が「ここで何か言われても、どちらの言い分が正しいかなど判断できるものでもありません。続きは警察署でお願いします」と言い終わるか終わらないかのうちに、パトカーのサイレンが聞こえた。あれよあれよという間に手錠をかけられ、警察署へ。ロープで取調室の椅子に縛り付けられ、既に立派な「容疑者」にされていた。
「『相手の女性は、お前がやったって言ってるんだ。だから間違いないんだよ!』と、同じ台詞が、入れ替わり立ち替わり取調室に入ってくる、何人もの警官の口から繰り返されました。でも、やってないものはやってない。そうとしか言えませんでした」とSさん。こうした取り調べは「やりました」と自供するまで続くという。「正直、自供した方が楽なんですよ。だって、1998年当時、痴漢は東京都迷惑防止条例で、5万円の罰金刑ですから・・・」と話す(2015年現在は刑事事件に格上げ、10万以下の罰金、1年6カ月以下の懲役)。それでも、「やってない」ものを「やった」とは言えないSさん。それから長い戦いが始まることになるなんて、この時は知る由もなかった。
勾留期間が切れるまで、2週間、警察署内にある留置場に入れられた。その後、妻がやっとの思いで工面してくれた保釈金180万円を支払い、釈放された。すぐに仕事に復帰しようと、翌日、会社に行くと、「自宅待機」と「給与の4割カット」を命じられた。さらに会社は、この時から半年間にわたって「辞職勧告」を出し続けた。やむなく家に帰る道すがら、所属部署で言わされた「傾いた実家の立て直しに行く」というウソのあいさつを聞く同僚たちの、何とも言えない複雑な表情が思い出された。
弁護士から、「痴漢裁判は物的な証拠がなく、ほとんどが被害者の証言に誘導されて判決まで行ってしまう。地裁での一審は、まず間違いなく『有罪』。『有罪』になると、会社も大手を振ってクビにできる。そしたら退職金すら支払われないだろうから、今のうちに『和解』して退職金だけでも確保しておいた方がいい」と助言を受け、その通りにした。翌年8月退職。この年の暮れ、東京地裁での一審判決は、予想通り「有罪」。直後に控訴し、2000年7月、高裁での二審判決では「無罪」となったが、検察側が控訴をするのか、しないのかと固唾を飲んで上告期限を待った。
2週間後、検察は上告を断念し「無罪」が確定した。「弁護士の先生から『おめでとう!無罪確定です』と電話口で言われたときには、目に見えない何かが頭の上からガラガラと崩れ落ちました。『やっと終わった』と思えました」とSさん。事件から既に2年近くがたった643日目の「勝利」だった。
しかし、事件のトラウマはその後もSさんを苦しめた。事件の取り調べで、人格を無視した疑いと侮蔑にさらされ、防衛本能が過剰になっていた。再就職に成功するも、小さなミスを指摘されると、後から後から言い訳の言葉が出るようになった。人が信用できなくなり、素直に謝ることができない。上司はおろか、社長にさえ同じ態度を取ってしまう。そんな状態で職場を転々としたが、まともに勤まるはずもなく、妻の勧めで10年以上音信不通だった父親に、頭をさげて、父親が経営する会社に入れてもらうようお願いした。
その後、Sさんが「宗教オタク」と呼ぶ父親が、当時夢中になっていた北海道余市町にある恵泉塾へ行くことに。Sさんが父親に反目した理由の一つが宗教の押し付けだった。そのSさんにとって、余市行きは「ゆるい刑務所行き」に感じられたという。
恵泉塾は、聖書に基づいた共同生活を送ることで、「生き方の改善を図る」場所。先に受洗し、恵泉塾の先輩でもある実妹は、Sさんの余市行きを心から喜んでくれた。入塾の際「大好きな兄へ」と、新しい聖書が届いたときには涙が出た。Sさんのかたくなな凍土のような心に暖かい風が吹いた。
「私の心には大きな黒いヘビがとぐろを巻いて潜んでいる、そんなイメージにとらわれていました。検察、警察、相手の女性に抱いた恨みは、殺意を含んで真っ黒いヘビの形をして、私の心の中に潜んでいたのです」とSさんは話す。そんなものを抱えている不安から、何とか解放されたい。その思いで、初めて天の父なる神に向かって祈った。宗教オタクの父親に育てられたこともあり、聖書の神を受け入れるのは早かった。ひと月たたないうちに、それとは知らずに信仰告白していた。
約1カ月で余市町の恵泉塾を後にして、しばらくは神奈川県にある恵泉塾に通っていたが、2008年に埼玉県にある「罪人の友」主イエス・キリスト教会(通称:罪友)に転会した。元ヤクザで、刺青があり、小指の先のない牧師が、ミラーボールのあるカラオケステージで説教する。礼拝の後はスナックが営業を始める・・・。「恵泉塾とは対極に位置する教会」だと感じられたとSさんは言う。
ここで出会った、進藤龍也牧師を含め、元犯罪者たちとの交わりで、本当に癒やされたという。「神様がご覧になっている景色の中では、点に過ぎない地球、その地球上でしか生きられない微生物のような人間、というイメージが与えられました。そんな小さな私の恨みつらみ、と考えたら、それに時間とエネルギーを取られることがばかばかしくなって」とSさんは話す。
「当時の警察、検察、訴えた女性に憎しみはないか?」と聞くと、「どうですかね・・・。あのままの人生だったら、世間的には順風満帆だったかも知れない。でも、間違いなくイエス様を知らずに、この世を去っていったでしょうね。あの事件のおかげで、人脈も、金も、法律も役にたたない、残るは神頼み、という状況まで追い込まれ、初めてイエス様に出会った。それでいいんじゃないですかね。黒いヘビも宇宙のかなたまで飛んで行って、見えなくなったことだし」と笑顔を見せた。
現在は、アルバイトの傍ら、手縫いで仕上げる革製品の製作に取り組んでいる。教会のメンバーに大人気の聖書カバーは、一人一人の要望を聞き、祈りのうちに仕上げられるという。「罪友」で洗礼を受けたメンバーには、Sさんのお手製カバーが付いた新約聖書がプレゼントされる。外部からも受注しているが、「One to One」を心掛けているSさんは、「できれば罪友に一度来会して、自分と会った上で詳細を相談してほしい」と言う。