前科7犯の元ヤクザである進藤龍也牧師が開拓伝道を始めたのは、2005年。出所後、JTJ宣教神学校に通い、神学を学ぶ傍ら真面目に働いていたが、覚せい剤の売人をしていた頃の取引先からは依然と電話がかかってきた。「出所者にとって、今までの生活を全て変えるのは大変な作業。なにせ、ヤクザの世界からカタギの世界へ入り、刑務所からシャバの生活に入るわけですからね」と話す。
開拓伝道を始めるのと同時に、刑務所の中にいる受刑者への文通伝道を始めた。そして、出所して行き場のない人たちが、1人、2人と教会を訪れるようになった。彼らが教会に来たその日からしばらくは養ってあげなければならない。自分の生活と彼らの生活を成り立たせるためには、教会の外でも働かなければならなかった。あれから10年。日本各地の教会やさまざまな集会を訪問する巡回伝道と、主任牧師を務める罪人の友主イエス・キリスト教会(通称「罪友」)の牧会、また受刑者・出所者に対する伝道に重荷をもって活動している。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25:35〜36)。「この聖書の言葉は、刑務所伝道の姿であると思う」と進藤牧師は話す。
刑務所から出所し、聖書に従って生きることによって、今までのつらく暗い過去から解放されたと話す山崎正義さんも、刑務所伝道で導かれた1人だ。親子3代にわたってクリスチャンだという山崎さんの両親は、共に聴覚障がい者。父は生まれつき耳が聞こえず、母は広島県で被爆し、耳に障がいが残った。山崎さんと妹は、幼い時から見よう見まねで手話を覚え、両親との会話はいつも手話だった。
小学生になった頃から、周りの子どもたちから、ひどいいじめに遭うようになった。声の出ない母親が、時折発する吃音(きつおん)を周りの子どもたちが怖がり、からかい始めたのが原因だった。田植えの季節になると、帰り道はいつも田んぼの中に落とされた。母親に気付かれまいと、近くの公園で泥で汚れたシャツを水で洗い、帰宅した。裏山に連れて行かれて、暴行を受けるのも日常茶飯事だった。中学校に入ると、母親の手作りの弁当に牛乳を入れられたり、尖った鉛筆で足を刺されたりしたこともあった。その傷は今も痛々しく山崎さんの足に残っている。いじめは小学校の6年間、中学校の3年間、合計9年間も続いた。母に対して怒りはなかった。「ただ気付かれたくなかった」と山崎さんは当時を振り返る。
日曜日に通っていた教会学校は、山崎さんにとって自分の「居場所」であり、「唯一、心から楽しめる場所」であった。「土曜日の学校が終わると、早く日曜日にならないかな・・・と楽しみで仕方なかった。日曜日になると、ずっとこの時間が続けばいいのにと思った」という。
このような環境で勉強に集中できるはずもなく、学校の成績はあまり良くなかった。だから・・・というわけではないが、学校の先生にいじめのことを打ち明けることは、9年間一度もなかった。ただし、一度も「死にたい」とは思わなかったという。それは、「僕が死んだら、両親が悲しむ」という思いからだった。
高校は、定時制の高校に進んだ。誰も自分のことを知らない学校へ行きたかったが、ここでも中学時代からのいじめグループの1人に会い、多少良くはなったものの、いじめは細々と続いた。高校1年生の時に受洗。イエスを受け入れた。卒業後は、大阪の調理師専門学校に進んだ。「よっし! 今までいじめてたやつらを見返してやるぞ!」と料理の勉強に打ち込んだ。調理師学校を出ると、フランスに留学し、本格的にフランス料理の勉強もした。帰国後は、地元広島の有名ホテルに就職。料理人としての第一歩を踏み出した。
このホテルで、山崎さんはある女性と交際することになった。初めは順調だったが、しばらくたつと些細なことでけんかするようになった。怒りはだんだんエスカレートして、殴る蹴るの暴行を加えるようになってしまった。当然、その女性は警察に通報。この知らせを聞いた母親が母教会の牧師に相談した。山崎さんは教会に呼ばれ、牧師と話をしたが、怒りは収まらなかった。「お前に何が分かる!」と怒りの矛先は牧師に向けられ、牧師にも手を上げてしまった。牧師も警察に通報し、その後ホテルを無断欠勤した上、逃げ回っていたが、1週間後に地元に戻り逮捕。傷害と女性宅から物を盗んだとして窃盗の罪でも起訴された。留置所に入り、裁判を待った。裁判には、山崎さんが殴った牧師も情状証人として法廷に立ってくれた。
初犯ということもあり、実刑は免れ、執行猶予付きの判決が下った。猶予中は、イライラを紛らわすようにヤクザとけんかを繰り返した。「今から考えれば、僕は人との付き合い方がよく分からなかったんだと思います。イライラすると、それをどう抑えていいのかも分からなかった。だから、ヤクザとけんかすることでそれを発散し、どこか常識破りな感じが格好いいと思っていたのでしょうね」と当時を振り返る。
そんなことを繰り返しているうちに、執行猶予が切れる2カ月前に起こしたけんかで警察に捕まり、刑務所へ。その頃、もともと病弱だった母は入退院を繰り返していた。松江刑務所に1年半服役。刑が確定する前にいた留置所では、差し入れられた聖書やJTJ宣教神学校のチラシがあった。特に興味はなかったが、住所が書いてあった同校の岸義紘牧師と文通を始めた。しかし、当時は刑務所に入ると外部との連絡は親族以外一切できなかったため、文通は途絶えてしまった。刑務所は満期で出所。出所後は、母親の介護にあたった。5年後、母を天へと送ると、心の中にぽっかりと穴が開いたのが分かった。山崎さんが35歳の時だった。
その後は、父親との2人の生活が始まったが、再びストレスがたまり、イライラが募った。すると、今度は近所のショッピングセンターに侵入して、トイレを壊すことに快感を覚えるようになった。営業中の店内だが、他の客に見つからないようにトイレを壊し、また別のトイレに侵入し、壊すということを1年ほど続けた。しかしある日、トイレから出てくると、警察官に囲まれ、現行犯逮捕。そのまま連行された。留置所にいるとき、神学生だった妹が、再び聖書と進藤牧師の著書『未来はだれでも変えられる』を差し入れてくれた。「この人なら、犯罪者である自分のことも分かってくれるかもしれない」と、この本を繰り返し読んだ。聖書を読み、祈った。何十年ぶりの祈りであった。裁判は、懲役1年6カ月執行猶予4年で結審した。
昨年9月には、初めて岸牧師に会った。「僕のこと、覚えていますか?」と話すと、「覚えているよ」と言って、涙を流して喜んでくれた。この時、進藤牧師を紹介され、埼玉県にある「罪友」を初めて訪問。「いろいろあったかもしれないが、俺は絶対お前を見捨てない」と進藤牧師に言われたとき、どこか心からの「やすらぎ」を感じたという。
現在は、JTJ宣教神学校の牧師志願科の通信教育で学んでいる。毎週日曜には、地元広島県の教会に通い、月に一度は東京に出てきて神学校で受講し、その帰りに「罪友」で礼拝をささげている。「交通費も大変ですね」と尋ねると、「信仰があれば、何でもできるのです」とほほ笑んだ。「僕の人生は、もしかしたら子どもの頃に受けた『いじめ』によって、大きく変わったのかもしれません。それでも、今、僕をいじめていたやつらに会ったら、彼らを赦すと思います。僕の罪は十字架によって赦されました。僕も彼らを赦し、彼らの救いのために祈りたいと思います」と力強く語った。
耳に障がいがあった母親は声に出して祈ることはできなかった。しかし、自分のために母がいつも祈っていたことを、山崎さんはよく知っている。「声に出すことのない小さな祈り」も、神は聞いてくださるのだ。