まとまった資金がたまり、土地を買い取った時のことである。口約束の後、持ち主が言った。「中川はん、あんたのことはよう知っとるけん、契約書も金も、今日でのうてええ。また今度にしょうや」
その時、中川さんの心にするどく聖書の言葉が浮かんだ。「悪魔に機会を与えてはいけない」。神様からの語りかけだった。
「いや、やっぱりここできちんとしとこわい(しておきます)」。法的に有効な契約を文書で成立させた。もし相手の好意的な言葉に押し切られて契約を後日に伸ばしていたら、どうなっていたのだろうか。想像するしかないことである。
ただひとつ、私たちが教えられるのは、「あんたみたいな正直な人、だまされて商売なんかできるはずがない」と言われた中川さんが、商売でも、土地取引、会堂建設でも成功したのは、こうした神様の導きがあり、中川さんが逐一それに従ったことによるということだ。
その時買い取った土地は、農道を挟んで500坪と250坪。250坪の方に、まず牧師館を建てた。当時の岩松キリスト教会の信徒数からすれば、それだけでも十分教会として通用する広さと設備だった。毎週の礼拝祈祷会はそこで行われた。
またその牧師館は、多くの牧師が、一時牧会から離れ、羽を休める場所として提供されてきた。
中川さんは、知りあいの牧師一家が教会を辞任し、次の働きの場所が決まっていないことを耳にすると、無料で牧師館を貸した。
「次のとこ決まるまで、ウチにきさいや(来なさいね)。一日でも、一年でも、ずーっとでもええ。住むとこなら、牧師館でも教会でも店の二階でも、なんぼでもある。きさいや」。この調子で電話して助けるのである。
中川さんは、自分が苦労したので、困っている人に手を差し伸べずにいられない性分の方だった。また、自分自身、フルタイムの伝道をしたいというお気持ちもあり、牧師伝道師の窮状に無関心でいられなかったようだ。
時々私にも、もらしておられた。「ええなぁ、伝道だけできて。すばらしい仕事じゃなぁ」。もし、教会堂建設のビジョンとお店がなければ、その時間とエネルギーを伝道一本に向けられたかもしれない。
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井原博子(いはら・ひろこ)
1955年、愛媛県伊予三島(現四国中央市)生まれ。大学入試に大失敗し、これだけは嫌だと思っていた「地元で就職」の道をたどる羽目に。泣く泣く入社した会社の本棚にあった三浦綾子の『道ありき』を読み、強い力に引き寄せられるようにして近くのキリスト教会に導かれ、間もなく洗礼を受けた。「イエス様のために働きたい」という思いが4年がかりで育ち、東京基督教短期大学に入学。卒業後は信徒伝道者として働き、当時京都にあった宣教師訓練センターでの訓練と学びを経て、88年に結婚。二人の息子を授かる。現在は、四国中央市にある土居キリスト教会で協力牧師として働き、牧師、主婦、母親として奔走する日々を送る。趣味は書くこと。