年若き日に、敬愛する恩師が心に刻んでくださり50年余。小さな者の生活・生涯を導き、ささやかであってもそれなりに実を結びつつあるもの。それを、「同時にの恵み」と言い表したいのです。
申命記6章4節「聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである」に見る、「主はただひとり」のメッセージは、旧約聖書を貫く大動脈です。さらに新約聖書においても、それが一貫した基盤となっていることは、1コリント8章4節「私たちは・・・また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています」などにより確認できます。
しかし同時に、主イエスに対して、「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)と信仰告白がなされています。この信仰は、自らを神と意識し(ヨハネ8:58)、そのように教えた主イエスご自身からの賜物(ヘブル12:2)であると新約聖書は明示します。また、聖霊ご自身の神性は、主イエスの聖霊を汚す罪の教え(マルコ3:28、29)において、特に鮮明です。
「主はただひとり」でありながら、「同時に」御父・御子・御霊が全き神性を持たれる三位一体なる方。その生けるお方に従い、万物を認識する。それにより、万物の多様性のみを見て統一性を無視するのでもなく、反対に統一性のみを見て多様性を見失うのでもない。多様性と統一性を「同時に」見ていく、狭くとも確かな「同時に」の恵み。この泉・イズミ(詩篇36:9「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」)を、いかなる主義・イズム(ism)にもすり替えないように自戒しています。
主義・イズムは、一部を全部と見なし、一面を全面と主張することで、一見強力に見えても、自らも相手も窒息させてしまう。唯一の神、「同時に」御父・御子・御霊の三位なる方と両面を認めるとき、主義・イズムの独断から解き放たれ、自由の道が開かれると。
(文・宮村武夫)