桐生悠々(1873〜1941)の名を初めて聞いたのは、書物を通してではなく、1966年から始まったMご夫妻との出会いと交流を通してでした。M夫人の祖父として紹介されたことから、特別に尊敬する親族の一人のような親しみを悠々に対して抱いていました。
その後、2011年5月に25年振りに沖縄から関東に戻り、その10月に北陸宣教旅行へ出かけた際、今度は曽祖父・宮村撃との関係で、悠々に一段と親しみを持つようになったのです。
宮村撃については、加賀藩士であり、「撃」の名の通り、すこぶる気性の激しい人であったと、小学生の頃から祖母に聞いており、強い関心を持っていました。
そのため、初めて金沢を訪問した際、友人に石川県立図書館へ案内していただき、「加(賀)能(登)越(中)郷友会雑誌」(197号)の記事を入手したのです。ところがちょうどその時、桐生悠々の企画展の案内が掲示さており、悠々も金沢の出身、旧加賀藩士の三男である事実を知りました。それが強く印象に残り、時代こそ前後してはいても、悠々と撃とが私の中で重なり合うようになったのです。
撃は、長岡城攻略に加わり、「十三四才の少年なりしも敵の名ある武士と短兵接戦し遂に其首を提げて帰りたり」と伝えられる経験をしています。
また恩義を大切にする一面と共に、撃は、「一度自己の意に満たさるか又は不正の点を看破するあらば一歩も仮借する所なく其對手の地位名望の如何に顧慮する所なく直前猛進之を廣人稠座の中に罵倒するに至れり此れを以て人皆な氏を目して一種の暴者の如くの唱へし」と指摘される激しさを持ち続けています。
そんな彼に対して、「独り氏を罪すべきにあらず寧ろ氏をして沈黙を守らしむる底、社会は正気を以て充満し在らざるなりといふ人」もあったと郷土誌は伝えています。
そうです、私の中で、悠々と撃の重ね読みが生じているのです。
(文・宮村武夫)