マリヤはいついかなる時にも、「神の約束」を「思い巡ら」し、「現実を肯定」し、希望に輝いて生きました。
「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19)
クリスマスの夜の出来事でした。幼子について告げられたことを、羊飼いたちから聞いた人たちはみな驚きました。しかし「マリヤは、これらのことをすべて心に納め、思い巡らし」ていました。夫ヨセフはどうだったでしょうか。ヨセフも、マリヤが身重になったことを知ったとき、どうしたものかと「思い巡らし」ました(マタイ1:19、20)。
しかし、ヨセフの「思い巡らす」は、「思い煩い」だったのです。神様の祝福を受けるという点において、「思い巡らす」と「思い煩い」とでは、天と地ほどの差となります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(1ペテロ5:7)
「思い煩い」は、目と心が「状況」に囚われています。「思い巡らす」は、「神の約束」を捉え期待します。神様は「思い煩う」ヨセフを捨て置きませんでした。一方、「神の約束」を「思い巡らした」マリヤは、いかなる状況の中にも平安と希望と勇気を失いませんでした。
都上りの帰路、ヨセフとマリヤは12歳のイエス様を見失いました。少年イエスは宮で教師たちと知恵深く質疑応答をしていました。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」(ルカ2:49)。マリヤは「これらのことばをみな、心に留めてお」き(同51)、思い巡らしていきます。
イエス様が公生涯に入られ、マリヤの「思い巡らす信仰」は、主の奇跡(「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」―水がぶどう酒に。ヨハネ2:1〜11)を引き出し、主の愛と思いやり(「女の方。そこに、あなたの息子がいます」。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」。ヨハネ19:26、27)を享受させ、困難に立ち向かう強靭さ(イエスの十字架のそばには、イエスの母・・・が立っていた。 同25)を、マリヤに与えました。
イエス様の昇天後は、マリヤはもはや肉の情をはるかに超えて、ニ階座敷で120人の者たちと心を合わせて祈りに専念し、聖霊に満たされて「復活の主の証人」となり、「思い巡らす信仰」を極め尽くしたのです。
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前田基子(まえた・もとこ)
イエス・キリスト緑の牧場教会(東京)で救われ、玉野聖約基督教会(岡山)から献身。生駒聖書学院卒。生駒聖書学院副院長。エリムキリスト教会牧師。ABCラジオ放送「希望の声」・テレホンメッセージ「希望の声」(074・373・3740:ゼロナシ・ミナサン・ミナヨレ)牧師。