子どもの誕生については、概ね女性中心に事が進みます。マリヤの夫ヨセフも、その心痛と労苦を思うと、気の毒になります。羊飼いたちは「マリヤとヨセフと・・・みどりごとを捜し当て」、3人の博士たちは、ヨセフもそばにいたでしょうに、 「母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝」みました。シメオンは「両親を」祝福しましたが、 父ヨセフにではなく、「母マリヤ」に幼子イエスについての預言を語りました。
ところで、マリヤに大きな励ましを与えたのは、エリサベツの信仰でした。夫のザカリヤは、御使いが語った神の約束をすぐに信じなかったので、口がきけなくなりました。信仰の父アブラハムは、神の約束を笑いさえしたのに、お咎めなかったのに!?
ザカリヤが口をきけなくなったのは、神の約束に対するしるしだったのです。ザカリヤが生まれた子の名前を「ヨハネ」だと主張したとき、彼の口は解かれました。ヨハネの名前の意味は「神、恵みたもう」ですから、「信仰とは、神の恵みに対する素直な応答である」と言うことができるでしょう。
「ありがとう」は「有り難う」と書きます。「有り難い事」それが「神の恵み」です。自分にとって好ましい好ましくないにかかわらず、「有り難い事」を「ありがとう」と素直に頂く、受け止める、それが信仰です。
さて、受胎告知がマリヤに先にあったように、もし、エリサベツに先に語られていたら、どうなっていたでしょうか。夫ザカリヤは、イエス様の復活を伝えた女たちを信用しなかった弟子たち同様に、“年寄り女のたわごと”と相手にしなかったのではないでしょうか。けれども、妻エリサベツはザカリヤが懸命に伝えるメッセージとしるしを、信仰をもって受け止め、夫ザカリヤを迎え入れました。そうして、エリサベツはみごもったのです。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(ルカ1:45)
エリサベツの大らかな信仰を、発明王エジソンの言葉を借りて言うならば、こうです。
“実を結ぶ信仰とは、1%のひらめきを、99%の汗につなぐ大胆さ、大らかさである”
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前田基子(まえた・もとこ)
イエス・キリスト緑の牧場教会(東京)で救われ、玉野聖約基督教会(岡山)から献身。生駒聖書学院卒。生駒聖書学院副院長。エリムキリスト教会牧師。ABCラジオ放送「希望の声」・テレホンメッセージ「希望の声」(074・373・3740:ゼロナシ・ミナサン・ミナヨレ)牧師。