現代、女性はあらゆる分野に進出し活躍しております。安倍政権においては、5人もの女性閣僚が起こされ、はてと考えつつ期待を大にしております。クリスチャン教養のためになどと言い、またもハマってしまった朝の連ドラ「アンと花子」。私が知る「おはなはん」以来の女性主人公たちの“活き生きとした様”を思うとき、個人の資質ばかりでなく、時代状況を超えた法則がある様に思うのです。リバイバル(revival)はリ・バイブル(re-Bible)。聖書によって女性を捉え直し、あるべき姿に立ち、輝き生きたいものです。
「人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから』」(創2:23)
「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである」(創3:20)
女は男の助け手として、創造主によって造られました。しかしながら、女が女として存在したのは、男であるアダムが創造主によってそばに置かれた「女の存在」を認めたところに始まっています。男が「女」の存在を認め、「女」と名付けたので、「女」は男同様、創造主を表す存在であることが明らかにされました。しかも「女」は、男が神以外の何ものよりも愛し、いとおしくてならない存在であるのです。
また、男が「女」の存在を認め、「エバ」と名付けたので、その存在目的が明らかにされました。「エバ」とは、「すべての生きているものの母」の意味。いのちを握られているのでは太刀打ちできません。
あるエピソードを一つ。晃太は急性盲腸炎の手術後、しきりと痛みを訴えました。母親の清子はここぞと言ってやりました。「あんたは1本切っただけ。私は2本、十字に切って、あんたを産んだんだ」。晃太しおらしく「分かった」。
かく、「女」は「男」によって「有りて在る存在」「価値ある存在」となり得たことを再確認し、慎んで進んでまいりましょう。
「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」(エペソ5:31〜33)
ところで、アダムはいつ「エバ」と名付けたのでしょう。
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前田基子(まえた・もとこ)
イエス・キリスト緑の牧場教会(東京)で救われ、玉野聖約基督教会(岡山)から献身。生駒聖書学院卒。生駒聖書学院副院長。エリムキリスト教会牧師。ABCラジオ放送「希望の声」・テレホンメッセージ「希望の声」(074・373・3740:ゼロナシ・ミナサン・ミナヨレ)牧師。