2. 琉球(ウチナー)と日本(ヤマト)
言語学的諸説
さて、琉球の歴史を簡単に見てみよう。琉球という名前は中国からつけられたのだが、沖縄というのは自分たちで呼んだのでもあり、ヤマトの人たちが呼んだのでもある。民族的には遠い別れ、三世紀前後、中には紀元前の旧石器時代に遡ると言う人もいるが、三世紀前後が通説である。どういう形で分かれたかは分からないが、伊波普猷(いは・ふゆう)のようにひとたび北上したが戻って琉球に住み着いたという説(南漸説)と、柳田國男のように北上してヤマトに行ったのだ、琉球人は今の日本民族の源流である、すなわち、琉球は落ちこぼれてそのままそこに住み着いた人たちで、ヤマト人は北上して日本本土に拡散していった、という理解がある。また、どちらでもなくて、原日本人がいて、中国朝鮮あたりから新しい民族が何度かにわたり入ってきたという説もある。言語的には、琉球語は独立しているという説と、日本祖語が大和語と琉球語に分かれたという説とがある。
私自身の感覚では、源流は一つではないかと感じる。宮古島の言葉がある程度できるので、沖縄本島、八重山、そして現在の日本語、万葉平安時代、室町時代の言語と比べてみたが、やはり源流は一つではないか。その中で古いのが琉球語で、琉球語の中でも最も古いのが宮古語ではないかと見ている。
この説は、ロシアの言語学者ニコライ・ネフスキー(1892~1945年)が説いている。意外に知られていないが、日本にとって非常に重要な言語学者である。特に宮古島の言語の研究で大きな業績を残した。彼は「沖縄を抜きにして日本を理解することはできない」と考えた。残念ながら、諜報活動をしたと疑われ、スターリン時代に冤罪で銃殺された。最近になって名誉が回復された(1957年)。奥さんは日本人である。
琉球人の二重の自己意識
佐藤優氏が、ロシアの女性研究家の『琉球人の民族史』という本の中から引用している。「日本では日本人の99%が日本語を常用し、世界で最も民族的同質性が進んでいるが、そうでない領域が沖縄であり、沖縄の独自性が最近顕著になってきたので日本がどう変わってきたか、変わるか、それを知るためには、琉球、沖縄の調査研究がどうしても必要である」というのである。
また、「現状において琉球人の民族的自己意識の形成においては、様々な要因が影響を与えている。その要因とは、独自の独立国家としての歴史的記憶、日本国家の差別的な同化政策、沖縄戦の悲劇、米国占領の体験、1972年に日本の一部になった後の日本との相互関係、必ずしもうまくいってない。沖縄における米軍基地に対する関係である」。そういったことが、琉球人の民族的自己意識の形成に影響を与えている。
「他方において沖縄人は、世界で最も発達した国家の市民であり(日本国民のこと)、今日沖縄人は過去のいかなる時期よりも日本社会により良好に統合されている。このような状況から導き出せる合法則的な結論は、日本が琉球人の二重の自己意識を認めることだ。今のところ、日本社会には、このような抜本的な政策を採用する用意はないが、この方向への転換が観察される」
この「琉球人の二重の自己意識」について、本土から伝道に来ている先生方はどれだけ理解を持っているだろうか。琉球人は単純に日本人ではないのである。しかし、日本国家には、琉球人のこの二重の自己意識を認め、抜本的な政策を採用する用意はない。沖縄の人たちが、少数民族としての権利を認めるようにと国連やその他の機関に一生懸命要請し、日本政府に対して勧告が出されても、全く聞く耳を持たない。
日本「復帰」の際、屋良知事は六つの条件(「建議書」)を持って日本「復帰」を決議する国会に向かっている(1971年11月17日)。ところが羽田空港に着く直前、国会はいち早く「沖縄返還協定案」を強行採決してしまう。屋良知事が来ると、面倒なことになると知っていたのだろう。90%以上の賛成で決議された。屋良氏の持っていった条件の要点は、沖縄が特殊な地域なので、いくつかの特別な条件を認めてほしいというものだった。しかし認められなかった。屋良知事は、大変悔しい思いをしているわけである。それより前にも、琉球立法院(沖縄の国会に当たる)で、沖縄の植民地状況を撤廃するように国連に訴えている。効果は出なかったが、日本人も日本社会も、これを全く意識していない。
今のロシアは、日本が沖縄という、他の日本とは別の歴史的経緯と宗教意識を持ち、言語と文化的特徴を維持している沖縄を統合し続けることができるかどうかで、日本の将来性を判断しようとしている。ロシアはじっと日本を見つめているわけだ。沖縄をどう扱うかで日本との将来性を見極めようというのである。日本は知らないかもしれないが、外国は沖縄の動向をそれぐらい見つめている。
民族学的に
赤坂憲雄という民族学者がいる。確かに源流は日・琉一緒かもしれないが、1700年の時の空白がある。それは日本と一緒になったからといってそう簡単に埋められるものではない。そこに問題があると言う。
福田アジオという民族学者は、柳田國男の系統の人だが、師とは違い、日本と中国の関係、沖縄と中国の関係は別のものだと言う。各々、別々に関係を結びながら、アジアとの関係も結びながら独自の文化を育ててきたので、沖縄は別の地域と考えるべきだと。もちろん日琉の関係もあるわけだが、民俗学的・文化的に同一視してはいけないと言う。
鶴見俊輔氏も加藤周一氏との対談で語っている。「薩摩も日本も琉球を侵略して、琉球の文化を十分に理解しようとしなかった。文化というところから理解するのは難しいかもしれないが、それをやらないといけない。しかしやらなかった。今日でもあまり変わらないですね」。そして言う。「フェザーストンという元海兵隊員が各地で反戦のためのティーチ・インをしたのですね。その時にフェザーストンが言っていたのですが、日本という国は、琉球と琉球以外の地域からなっている」。彼は、日本という国は二つあると見ているわけだ。これは外国人の、直感的だが鋭く正しい認識である。
それから河上肇という人が明治44年(1911年)、沖縄に来て語ったが、沖縄の異質性を非常にするどく見抜いている。そのために彼は舌禍事件を起こし、沖縄を追われた。その他いろいろな人々が沖縄と本土の異質性(同質性も勿論あるが)を認めている。
良いヤマトンチュに
沖縄の代表的保守政治家の元県知事、西路順治氏が、沖縄の心はと聞かれ、「ヤマトンチュになろうとしてなれない心」と言った。これは逆のことも言える。「ウチナンチュになろうとしてなれない心」と。正直なヤマト(本土)の方は体験すると思う。もしそれが体験できないのであれば、その人はむしろ感受性の鈍い人だろう。
カトリックのラサールという神父さんがいる。彼は沖縄に来て、ウチナンチュになろうとがんばった。でもだめだった。ある時、女性の信者さんに言われた。「先生、そんな無理なことはやめなさい、あなたは良い白人になりなさい」。アメリカ人と沖縄人の違い、それは明白である。
でも、本土から来られる方は、その微妙なところを大事にしたほうがいい。この微妙なところが分からないと、なかなか沖縄人と接点が結べない。逆説的だが、ウチナンチュになろうとしてなれないことが分かった人は、ウチナンチュと心の結びつきができる。自分はだいたいウチナンチュが分かったと言う人は鈍感な人だ。これは全然分かっていない証拠である。われわれもそう簡単にヤマトンチュになれないのだから。なれていると思う人もいるかもしれないが、それは自己理解、自己認識の不足している人である。だから私は、ラサール神父ではないが「良いヤマトンチュになってください」と、本土から来られた先生方には言いたい。
沖縄に牧師として来られる方々、伝道者として来られる方々がいる。一つ心に留めておいていただきたいことがある。「あなたは何をしに沖縄に来られたのか。あなたはなぜ沖縄にいるのか」。沖縄に在住するヤマトの先生方にまず問いたい。自分の立っているところを問い直してほしい。伝道のため、魂の救いのためか。それは一応分かる。牧師であればだれでもそうだ。では、それが沖縄ではどういう形になるのか、どういう意味をもっているのか。それを問い直してほしい。ウチナンチュになろうとしても、10年かかってもなれない現実がある。そういう現実の中で伝道しようとしているのである。そこに求められる御言葉は何なのか、どういう風にそれを宣べ伝えているのか。
植民地的な教会形成への問い
結論が先になってしまうが、1950年代、沖縄バプテスト連盟にニコルソンという宣教師がおられた。わたしはこの方の指導を受けたことはないが、会ったことは何度かある。この人がこういうことを言った。宣教師というのは、建物を建てる時の梯子のようなものだ。建物が建ったらもういらないのだ、と。この方は、割と早々に沖縄を去っていった。ヤマトの人は宣教師だ、とまでは言わない。沖縄人と民族的に全く違うわけではない。でも、なろうとしてもなれない面があるということも事実である。その本土の方々が沖縄に来て、何を、どう貢献しようとしているのか、ということである。
結論から言えば、本土の先生方の役割は、建物を建てるためのある種の梯子であって、主体は沖縄人、沖縄人クリスチャンであり、その手伝いをすることである。自分が主役になろうと思うならば、沖縄ではまず失敗する。やはり、沖縄人にはなれないのだ。われわれがヤマトンチュになれないのと同じように。またなる必要もないのである。
ヤマトにもいろいろな地域がある。しかし、文化的にも歴史的にも政治、経済的にも、長い歴史の中で沖縄は、実に小なりといえども、日本本土全体と対等に立つ歴史と文化を持っている。そこに気が付かないと、本土から来られた先生方は、無意識的にしろ、いつも上から教えていくような伝道、自分が主人公になっていくような在り方になっていく。それは、沖縄の教会にとっては不幸なことだ。植民地的キリスト教伝道になりかねない。
さらに申し上げると、今、沖縄は社会全体が日米の植民地的状況であることは間違いがなく、軍事植民地でもあるが、私が気にするのは、文化的な面でも、そして教会においても、植民地的な教会が形成されやしないかということである。ヤマトはなんといっても大きいし、政治、経済から軍事まで力がある。知的にも蓄えが豊富だ。それだけに、こちらに来て伝道をそのままの形でやると、植民地的な宣教になっていく危険がある。
教会は、やはり謙遜にその地域、しかも長い歴史の中で塗炭の苦しみを味わってきた琉球、今も踏みつけられ、気息奄々(きそくえんえん)たる状況にあるところの沖縄の状況を理解し、自分が何をすべきか、何ができるかを繰り返し問うていただきたい。できないとなれば潔く去るべきで、それが誠実な在り方である。決して敗北でもなければ逃避でもない。単純に沖縄と日本を均質化し、自分たち(ヤマト)のやり方を押し付け、押し通していく。これを植民地的手法と言う。大変危険なやり方である。(続く)
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饒平名長秀(よへな・ちょうしゅう)
沖縄バプテスト連盟神愛バプテスト教会牧師。沖縄宣教研究所所長。