はじめに:立体的に沖縄をとらえる
沖縄の歴史と文化については、いくら語っても語りつくせず、学んでも学びつくせるものではない。ただ、ここだけは押さえてほしいというところをお話したい。少し文献を引用する。
最初に、R・グールモン(1858~1915、フランスの批評家)の言葉から。「私たちは、歴史によって圧し潰されている」。これは、沖縄の歴史にぴったりの言葉である。今日私たちが見聞きする、さまざまな沖縄の矛盾―辺野古、高江、普天間、オスプレイ等々―は、火山に例えるなら表面に見える爆発の現象にすぎない。これらの根源をとらえなければならない。安保条約を見るならば、どういう国際情勢、国際関係の中で、あるいは世界政治の構造の中で結ばれているのかまで見なければならない。
もう一つは、太田元沖縄県知事の言葉。「こんな沖縄に誰がした」―彼の著書の題名でもあるが―やはりそれを根源的に問わねばならない。これが欠落したままでは、私たちの発言や行動が十分な力を発揮できないし、意義あるものにならない。評論家の佐藤優氏は、沖縄を情勢論だけで見てはいけない、存在論的に見ないといけないと話した。積分的に見ないといけない。つまり、現状分析だけでは不十分であり、歴史的、立体的に、過去にさかのぼって把握することである。両者とも、同じようなことを言っている。
歴史家のE・H・Carrは、「歴史とは現在と過去との対話である」と著書『歴史とは何か』で書いている。過去との対話無くして現状は理解できないし、未来への展望は開けない。歴史、そして文化、将来への展望を、キリスト者の立場から論じていきたい。
1. 植民地主義とは何か、沖縄は植民地か
汪暉(ワン・フィー)教授(北京・清華大学)の言説をめぐって
最初に、個人的な体験を語りたい。その前にもう一つ前置きとして、北京・清華大学の汪暉(ワン・フィー)教授の、『現代思想』(2009年9月)の中の一節を引用する。「琉球は歴史記憶を不断に叙述しており、帝国主義の歴史や第二次世界大戦の歴史、冷戦の歴史、琉球の地位、安保条約、社会主義、資本主義など、二十世紀を構成する最も重大な政治的要素の中で、琉球の現代の言語環境から完全に消え去ったものは、一つとして存在しないことに私は気付いた。これは他の地域では、滅多に見られない状況である」。
彼は日本のことを研究している。日本は、青森から九州までを見ただけではわからない。北海道に立ってオホーツク海を見、沖縄に行って沖縄から東シナ海、アジアを見た時にはじめて、日本という姿を描くことができると語る。とくに、沖縄の重要性を強調している。帝国主義の歴史、植民地の歴史、第二次世界大戦の歴史と続くが、これらが何一つ終わっていない地域だと言う。
例えば、世界的に植民地主義は終わったことになっている。第二次世界大戦後、世界中の植民地が独立していった。しかし、沖縄はそうではない。帝国主義以来の体制構造すべてが未解決のまま、それらをひっさげて現在に至っていると言う。我々は、明治の「琉球処分」について、いまだ解決していない。今も担っている。学べば学ぶほど、知れば知るほど、何も変わっていないことがわかり、ある意味では同じことを繰り返している。
今、尖閣諸島の問題で、台湾、中国とかなり緊張した状況にある。しかし、これらの諸島は琉球の所属、琉球の八重山、先島諸島の漁民たちの生活圏だった。彼らが海産物をとって生活していた。それは近代国家成立以降もそうだった。それがこれほどまでに日中関係を緊張させ、下手をすると、アメリカまで巻き込みかねない。米国は用心しながらも、ここで何か起こったら困ると思いつつも、一面緊張感を煽って利用している面もある。日米の同盟関係が強化されるし、日本の軍事力が強化されるし、保守感情も上昇する。アンビバレントである。この状況は、日清戦争前夜に酷似している。ちょうど琉球処分を巡って、清国と日本が対立していた頃とそっくりである。あの辺りから日本は、やがて朝鮮支配を巡って日清戦争へと突き進み、さらに日露戦争へと突き進む。日本の軍国主義の始まりは沖縄だった。そして、その終焉も沖縄(戦)だった。
歴史的な課題として
北京大学の教授、徐勇という歴史学者は、第二次大戦の日本の軍国主義をさかのぼっていくと、明治維新、琉球処分につきあたると言う。それで彼は、琉球の研究を始めた。新聞にも少し紹介されている(「沖縄タイムス」2007年5月10日)。同じことが今、また繰り返されようとしているのではないか。日清の政治交渉、琉球処分、あの時の緊張状態を思うと、胸が痛くなる。今沖縄に住んでいて、現時点でそれが再現されるのではないかと懸念される。やがて日中の厄介な紛争になりはしないかと。この点、先の佐藤優氏と哲学者・批評家の柄谷行人氏の二人は一致している。日中のこの問題で、戦争は起きると言っている。それを全力で止めねばならないと言うが、彼らの発言はまんざら妄想とは思えない。
このように、沖縄というところは、帝国主義以降の課題をそのまま引きずって持っている。安保条約がそうだ。資本主義の問題にもなっている。社会主義も捨てられているわけではない。ソ連型の社会主義は別として、だからと言って社会主義が終わったのかと言うと、そうではない。特に琉球にとって、社会主義はいまだ終わっていない。琉球の地位は、国際法的にはまだ決定されているわけではない。実効支配はアメリカにも27年間されたわけだが。日本と米国は、数々の国際法上のルールを違反し、現在の琉球の形を作っている。国際法的に、琉球はどこの国にも属していない。以上を述べたところで、元に戻って個人的なことからお話したい。
個人的な体験から
私は1934年に那覇市で生まれ、父はすぐ亡くなり、顔を知らない。宮古に移って母子4人の厳しい生活が始まる。饒平名という名前でわかるが、沖縄本島の名前である。宮古には元々ない名前だ。先祖は政治犯として宮古島に流された。そこで役人にとりたててもらった。本家は今でも那覇市泊にある。それから、母のある深刻な事情があって、やむなく5歳の私だけを連れて台湾に渡るが、女性の権利は何も認められない時代にやっと代用教員(母は師範学校卒業3カ月前に事情あって退学し、そのため正規の教員免許がなかった。後に取得)の職が見つかって姉二人を呼び寄せ、比較的安定した生活をした。
当時、植民地の生活は日本人にとって快適だった。しかしそれも、日本の敗戦によって長続きしなかった。なぜこの話をするかというと、私の最初のアイデンティティの不安、危機がそこにあったからである。台湾は植民地ゆえに三重四重構造になっていた。一番上が本土の日本人。その次に第二級の日本人としての琉球人がいる。その次に台湾人(その昔福建から渡ってきた移民)である。そしてその下に先住民、という四重構造である。母が勤めていた学校は、日本の農村をそっくりそのまま持ってきたような、いい面も悪い面もそっくりな村、移民村だった。
私が沖縄出身だと知って、上級生たちはさんざん私をいじめた。名前も顔もおかしいと言う。ことごとく差別される。深く傷ついた。どこがどう違うのだかわからない。私だけかと思ったが、そうではなかった。調べれば調べるほど沖縄人、琉球人は差別されていた。意識的にも構造的にも職業的にも、あらゆる面で差別されていた。名前を変え他府県に戸籍を変えた人も沢山いる。敗戦で命からがら逃げるようにして宮古島に帰ってきたが、そこで食うや食わずやの生活が始まる。だが幸いなことに、母親が子どもに教育だけは授けようと、ツメに火を灯すような生活をして子どもたちに高等教育を受けさせてくれた。
さらば、日本
私は日本に憧れていたが、自分の財力では本土に行けないため、「国費留学生」の試験を受けて岡山大学に配置された。そこでの四年間、私は不可解で無惨な思いをした。沖縄についての無知無理解に何度も出会った。これが琉球人かと珍しいものでも見るようにジロジロ見られたし、帰ったら総理大臣になるのか、日本語が上手ですね、靴を履いているのか、文化は低いのだろう、などと言われた。それが私の植民地台湾での原体験に輪をかける結果となった。
そこを去る時、私は「さらば日本」と言って帰ってきた。日本からは何も学ぶことはない、ということではない。知的、学問的にはお世話になったし、尊敬する先生もいた。個人的には親しい友人もいた。しかし、琉球人として、沖縄人としては、もう日本とはお別れするという気持ちだった。日本人の無理解もそうだが、差別意識はどうにかならないものかと今も思う。無論、私の「さらば日本」は差別のみに起因するものではない。後述するアイデンティティの重要な問題を含んでいる。
卒業生である中国政府の要人(郭沫若・日本の文科相クラス)が、岡山の旧制第六高等学校の出身だということで立ち寄って講演をしてくださるという。学生にその話をすると、「ああ、あのチャンコロのおっさんか」「聞く必要はない」と。未だにこういうことを言うのだなと思った。先輩で立派な中国の方なのに。植民地は無くなったが、新植民地というものがある。これは現在もあるし、沖縄は植民地も新植民地の状態も両方持っている。(続く)
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饒平名長秀(よへな・ちょうしゅう)
沖縄バプテスト連盟神愛バプテスト教会牧師。沖縄宣教研究所所長。