レビ記21章
(1)レビ21、22章(祭司たちへ)と20章までの関係
イスラエルの民は、出てきたエジプトまた入り行くカナンの習慣から聖め別たれ聖別の道を歩む聖なる民となるべき使命を与えられています。その中で、アロンの子たち(祭司たち)は、特に厳しい使命・条件を与えられているのです。民全体についての使命を前提とした上で、アロンの子たちは、特にこの点についてとの表現方法を用いて提示しています。
18~20章の教えは民一般に対するもので、祭司には関係ないのではない。祭司も民の一人として、18~20章を摘要。その上で21章は特に祭司に対して求められるのです。この事情は、神の民の歴史において、常に確認し続ける必要があります。
たとえば、牧師や役員は、教会員一般としての使命を免ぜられるのではなく、教会員の使命の上に、特に牧師や役員としての使命があるのです。同様に、キリスト者として求められることは、一般市民として求められることの上に、一般市民としての踏むべきことはキリスト者であるという理由で免除されない。人間として良く勤め、キリスト者として使命に生き、牧師としての責任に耐えていく。
義務を免除される特権を与えられる人々がいるかのごとき錯覚は、堕落の要因となり得ます。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(ピリピ1:29)
しかし同時にこのような指導者に対する人々のバックアップ・背後での支えも大切です。「モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた」(レビ21:24)において、祭司だけでなく、民全体に語られているのが印象的です。
(2)祭司について、特に求められる三つの分野
① 死者の葬りについて。
② 結婚について。
③ 子女について。
(3)死者の葬りについて
① 縁者(1節)一般と母や父、息子や娘、また兄弟の場合(2節)は区別。
②「身を汚す」(1節)とは死体に触ること。死体の処理などを含めて。
恐らく異教の習慣や風習に従うなとの意味が強い。「あなたがたは、あなたがたの神、【主】の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民である。【主】は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(申命記14:1~2)
恵みの立場の自覚と責任←→死者礼拝。
◇ 死者礼拝の問題点
いのちの源である主なる神との関係から切り離して、死を直視することは、死の重さや空しさから困難です。
死の重さや空しさから目をそらせるため極端な悲しみに陥るか、逆に死者を祭り上げる。いずれの場合も、神の宝の民とされている者にとって、その立場にふさわしくないのです。死者に対する責任より主なる神に対する責任が優先すること、また死者に対する儀式より、家族を中心に生きている人々に対する実際的責任が優先されるのです。「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」(Ⅰテモテ5:8)
生きている家族への責任を徹底的に担うことが、死者礼拝の誘惑から解き放たれる突破口となると示唆。
(4)結婚について
① どのような配偶者と共に生きていくかを重視。
② 8節、主なる神からモーセに委ねられた使命。「あなた・モーセは、彼を聖別しなければならない」。
同時に、「あなたがたを聖別する主、わたしが主であるから」と、「わたし」を特に強調した励ましに満ちた約束(20:7、さらに出エジプト19:6)。
15、23節、また22章9、16、32節で各区切りの結論の部分において繰り返し一段と強調、「わたし」と、主なる神ご自身が契約の主なるお方として自己宣言をもって約束していてくださっています。
祭司をはじめ民を聖め、礼拝を可能になさるのは、祭司を支え、民を支えるお方。モーセは自ら聖別される者(受け身の恵み)として、「彼を聖別しなければならない」という使命を果たすのです。
(5)子女について
最も厳しい罰。祭司の妻についての話しが、急に娘の方に向かう。14、15節を見ると、「子孫」への配慮がいかに重んじられているか明らか。祭司は妻との横の関係ばかりでなく、娘(次の世代)との関係にも生かされているのです。
以上祭司に求められる三分野のいずれについても、「わたしが聖とする」と宣言なさるお方との生きた交わり・礼拝の生活が鍵。
(6)21章16節以下
身に欠陥のある者に対する差別のように見える。すべてを理解するのは困難であっても、そうした中で注意すべきは、21節に見るように、職務(機能)にはつけないが、祭司の子としての恵み(存在、立場)からはもれない。当時の異教社会の一部では、わざと己の身を傷付け、それを特別な立場とする傾向があったと言われます。
身の欠陥は、聖書全体から見れば、決して決定的なものではないのは明らかです。特にイザヤ56章3節以下は注目すべきであり、マタイ21章13~16節は、最も明白な指針です。
◆ 22節「しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる」と、このような中でも、なお守る姿勢を見ます。
◇ 24節「モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた」。祭司だけでなく、民すべて。新約聖書では、万人祭司と呼ばれる聖書箇所(Ⅰペテロ2:4~10。黙示録1:6、5:10、20:6)。
◆ キリストご自身、大祭司として(Ⅱコリント5:21、ヘブル4:14、15、7:25~28、Ⅰペテロ2:22、Ⅰヨハネ3:5)。
◆ 主イエスがキリスト者・教会をきよめなさる(エペソ1:4、5:25~27、コロサイ1:22)。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、『哀歌講解説教 哀歌をともに』、『ルカの福音書 味読身読の手引き①』以上クリスチャントゥデイ、など。
■ 外部リンク:【ブログ】宮村武夫牧師「喜びカタツムリの歩み」