ブルガリアで日本語教師として働いていた澤村さんのもとに1通のメールが入った。フィリピンで烏山さんが倒れたという知らせだった。「手を貸してほしい」という切実な依頼に、澤村さんは迷った。2年目に入っていたブルガリアの生活は充実していて、欧州のほかの国でも経験を積みたいと考えていた。
「悩みましたが、それでも行くことに決めました。自分をフル活用できるのは、子どもたちのいるその場所だと思えたのです」。烏山さんが倒れたのは2007年12月。澤村さんは翌年の初めにハウス・オブ・ジョイ(HOJ)へと向かった。「孤児院を運営するという働きにほかにはないものを感じていたので、不安はありませんでした」
澤村さんが初めてフィリピンを訪れたのは19歳の時。横浜国立大学に在学中、ボランティア・ツアーでダバオ市の職業訓練校を手伝った。手に職のない若者たちに農業や溶接などの技術を教える、カトリック・サレジオ会が運営する学校で、澤村さんも一緒になって農作業や草刈りに従事した。
そのころ、修道会のシスターから「日本人が孤児院を作ろうとしている」と耳にしていた。烏山さんと出会ったのは、再びフィリピンに来た翌年で、ダバオ郊外に開設して間もないHOJを訪ねた時は、まだ2棟のシュロ葺きの建物があるだけの規模だったという。
大学を卒業した澤村さんはダバオで日本語教師の職に就き、烏山さんと親しく交流するようになった。その後、日本に戻って神父を目指した時期もあったが、「自分で何かをしたい気持ちがあることがわかり、自己実現のために神父になるのは違うと思い」半年で神学校を退学。日本語教師の求めがあったブルガリアに渡った。
■ 病にあっても、子どもたちの歓声と陽光にあふれて
脳梗塞で倒れた烏山さんの病状は予想以上に重く、左半身には麻痺が残った。「ほとんど身動きできなかった最初よりは良くなっている」と妻のアイダさんは言う。病の試練はそれだけではなかった。家系的な糖尿病を抱えていた烏山さんの具合が年ごとに悪化していき、膝下両足切断の手術を受けて義足と車椅子の生活に入ったのは昨年のことだ。
それでも、アイダさんの支えと子どもたちの笑顔に囲まれている烏山さんの姿は平安で穏やかだ。烏山さんとアイダさんの一人娘は、いまダバオで小児科の医学生をしていると聞いた。澤村さんという代表代行を得てマネジメント面の不安はない。日本からの訪問者の目に、HOJは子どもの歓声と陽光あふれる楽園のようにも映る。
「もちろん、施設の運営は決して楽ではありません」と澤村さんは笑顔で話す。「毎日いろんなものが壊れていくので、その対応は大変です。食料品をはじめ物価は年々上がっていますし、なによりフィリピンは就職難で、18歳を過ぎた子どもたちに、いかに自活してもらうかが大問題なのです」(続く:何を仕事にするにしても笑顔でいたい)
■ フィリピン児童養護施設を訪ねて : (1)(2)(3)(4)
■ ハウス・オブ・ジョイ
http://hoj.jp