心はうちに燃えていたではないか
ルカの福音書24章13~35節
[1]序
ルカの福音書24章13節からのエマオの途上の記事を味わいます。
[2]ふたりの弟子
(1)ふたりの弟子
11節に見る、「女たちを信用しなかった」人々の中のふたり。エマオの我が家(29節参照)へ戻る途中と私は推察。
(2)彼らが話し合っていたこと
14節と19節以下参照。
(3)彼らの主イエスの対する期待と気落ち
彼らの期待、「この方こそイスラエルを贖ってくださるはず」(21節)。 彼らの状態、「ふたりの目はさえぎられていて」(16節)。
[3]復活の主イエス
(1)主イエスの方からふたりに近づかれる
「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」(15節)。
(2)主イエスの方からふたりに語りかけられる
「イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった」(17節)。
(3)ふたりの実態についての主イエスの指摘
「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち』」(25節)。参照、「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」(16節)。
(4)主イエス、聖書全体を通してご自分を明らかにされる
①弟子の期待(21節)との違い、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」(26節)。
②聖書を説き明かされる。「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(27節)。エペソ1章17節以下、「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」。
[4]結び
(1)主イエスを中心とした食卓の交わり
主イエスが家長の立場に立ち、食卓に招く。24章30節、15章22節以下参照。
(2)「彼らの目が開かれ」(31節)
心に起こされる燃える思い(32節)。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(ヨハネ20章9節)。
(3)喜びを共に
「彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した」(24章35節)。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。