聖霊に満たされるためには?
最後の聖会の講義では、峯野氏から同書第7章「聖霊の満たし」について説教がなされた。
峯野氏は日本人の救いについて、「天の大路に皆が立つことができるようにしたい。日本に遣わされて、日本にいる。日本が祝福を受けるには、(クリスチャンである)私たちが恵まれ、聖霊に満たされていなければならない。妨げるものがあってはいけない」と呼び掛けた。
聖霊に満たされるためにも、「罪について、不信仰、不従順、悔い改めることは悔い改め、聖霊が導く条件を備えるとき、私たちに聖霊があふれ、大いなるみ業がなされていく。中途半端な信仰の人たちも、私たちの見事な変革を見て、一緒に歩むべく、立ち上がって参画していく。それをリバイバルという」と説いた。
峯野氏は、同章を基に、「聖霊に満たされることは、学問や能力でできることではない。謙虚さをもって、『あなたの意のままにお用い下さい』と自身を明確に捧げることで、リバイバルの器となることができる。聖霊になりかわって、自分が福音宣教をしているという傲慢の罪を犯してはならない。愛の生涯を生き、多くの人々を滅びから命に導くすばらしい神の御手の中で働くひとりひとりになるべきである」と説いた。
また聖霊に満たされることについて「私は間に合っています」と拒むことは「大なる聖霊への反逆罪であり、聖霊を悲しませる。燃やされるべき御霊の火に燃やされることなく、もみ消してしまう罪を犯していないか。いつも喜んで、絶えず祈り、すべてのことに感謝するべきである(Ⅰテサロニケ5・16-19)」と促した。
同章を基に峯野氏は、「御霊に満たしていただくため、本気で祈り求めなければならない。本気ではない人を聖霊で満たしたら、御霊を汚す大罪を犯すことにつながる(マタイ12・31-32)。聖霊様が満たしたいと願っておられるが、高価な宝を預けようとするとき、いい加減な人にそれは渡せない。真剣に命がけで感謝して受けて、宝の尊さを知る人に渡したい。それほどの真剣さと渇きが皆にあるだろうか」と問いかけた。
またクリスチャンが聖徒に変えられる信仰生活について、信仰生活を歩んでいるうちに「世のものが良く思われて信仰から離れたり、律法的な生き方になってしまう、何かの枠にはまった、自由のない、解放されない、人間の努力による、人間の枠組みの中の清さに捉われてしまっているならば、社会から見て立派なクリスチャンかもしれないが、聖霊から見るなら、惨めな解放されないクリスチャンとなる。清く生きられない人をも愛して、その人のために癒していく、豊かな聖霊による愛の器にはなれない。そのような信仰の不適格者になっているべきではない。御言葉を通し、良い証しを見たりしながら、自身の信仰生活において『これは違う』と気付かされている囁きが聴こえているにも関わらず、自分の好み・関心から、過去の何かの事柄への怯えに自分を明け渡していないか。だからこそ、イエス・キリストの中に取り込まれなくてはならない。そちらのほうに、身を譲らなければならない」と促した。
聖書では聖霊に満たされることが命じられている(エペソ5・18)。峯野氏は、「実行もできないことを神は命令されない。満たすすべての手だてはもうできている。聖霊を受け取らねばならない。聖霊を受けることは義務であり、恵みのうちに成長するために、どうしても御霊の内に満たされる必要がある」と促した。
さらに聖霊による満たしについて、「過激」「行き過ぎ」と言われることがあることについて「御霊の導きに従うと、非常識になってしまうのは、真に満たされているとはいえない。御霊に満たされると『超』常識になる。私たちは自分たちの『常識の枠』に入らないものは、非常識に見えてしまう。過去や伝統、これまでの実績をもって、理屈を言って、教会会議をするだけでは、祝福と成長、リバイバルにはつながらない。御霊が現実以上のことを導かれるのであり、無謀に見えても無謀ではない。よろしく聖霊に満たされようではないか」と促した。
■ リバイバルとは何か?:(1)(2)