第1の理由としては、「神様は私たちを愛しておられるからこそ、私たちに今の時に悔い改めをしてほしいからです。私たちが罪深い存在であるから、それを打ちのめして滅ぼすのではなく、ちょうどヨナ書のヨナを立ち戻らせるように私たちに主の道に立ち戻ることを願われておられるのです。マタイ24章には人の子が来る日はノアの日のようであると書かれてあります。一方で神様はノアの日のような洪水は二度と生じさせまい(創世記8・21)と言われておられます」という。
第2の理由として「神様は自由に自分の道を突っ走っている状態の放蕩息子が帰ってきて父の胸の中に戻ってきてほしいと願われておられます。そして彼を抱いて共に歩きたいと願われておられます。私たちはそれぞれさまざまな概念、哲学、政治理念、個人の財産などに固執して生きている姿がないでしょうか。そうではなくイエス・キリストの中にのみ希望と平和を見出してほしい、イエス・キリスト以外に人間の心を本当の意味で満足させるものがないことに気づいてほしいと願われておられるからです。私たち全てにイエス・キリストの生ける水を飲んでほしいと願われておられます」と述べた。
第3には、「教会に仕える私たちの使命を今一度思い起こさせ、神様に本当の意味で仕える者へと戻ることで、そこから祝福を受け取ってほしいと願われておられます。ヨナ書では神様の御言葉の預言者ヨナがニネベに警告を与えに行こうをせず、スペイン南部のタルシシュに行こうとしたところ、神様がヨナの世界を揺るがされました(ヨナ書1・4~6)。私たちも主に従わずに、霊的に眠っており、違うところへ行こうとしている姿はないでしょうか?」と問いかけた。
最後の第4の理由としては、「イエス・キリストが再びこの地に戻ってこられる時が迫っていることが挙げられます。時が迫っています。黙示録22章には『見よ。わたしはすぐに来る』と書かれてあります。一方でヨハネの福音書14章には『心を騒がせてはなりません。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります』と書かれてあります。マタイの福音書24章によると、主が来られる日は天の父以外に誰も知らないと書かれてありますが、一方で『いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい』と書かれてあります。この米国において、イエスを信じる者への迫害が現在生じています。今の時は歴史上のこれまでの時とは違います。なぜこれまでの時と違うかの答えはイスラエルにあります。ユダヤ人に注目が集まっており、イスラエルが新たに生まれようとしているいまだかつてない時を迎えています」と指摘した。
その上でマタイ24章44節を引用し、「『人の子は、思いがけない時に来る』と書かれてあります。皆さんはどうでしょうか?今死んで、天国に行けるかどうか―神様は今日、皆さまが父の下に戻ってきてほしいと願われておられるでしょう。第一ヨハネの手紙1章9節には、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を許され、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と書かれています。黙示録3章には、『わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない』と書かれてあります」と警告した。
ヨエル氏は、「私たちにこのような姿はないでしょうか?生きてはいるが中身は死んでいる。本当の意味で主を礼拝せず、福音を他者と共有しない。一人も伝道しようとせず、眠ってしまって、他の道に逸れたヨナのようになっていないか、点検してみることを願います。2001年以来宗教的活動は高まりを見せました。目覚めの呼びかけが来ているのにもかかわらず、私たちが再び眠ってしまい、何事もなかったかのようにビジネスをしている姿はないでしょうか。どんなにそのためのコストが高くついたとしても、イエス・キリストに従っていかなければなりません。私たちには揺れ動くことのない天国があります。私たちが顔と顔で主と交わる用意ができているでしょうか?」と呼びかけた。
第2部のメッセージはアン・グラハム・ロツ氏によってイザヤ書6章が引用され、すべての人々の悔い改めが呼びかけられた。イザヤ書6章では、長年統治していたウジヤ王の死をきっかけに、堕落した文化に囲まれて生きていたイザヤが「高くあげられた王座に座しておられる主を見た」様子が書かれている。イザヤはその際、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」と嘆いたところ、セラフィムのひとりが飛んできて、彼の口に触れてイザヤの不義を取り去り、罪が贖われたことが書かれている。
アン氏は旧約聖書の選ばれた大預言者イザヤの経験が、新約聖書の時代にあっては私たちすべての人々が「イエス・キリストの十字架」によって預言者イザヤの不義が取り去られ、罪が贖われたのと同じ経験をすることができるようになった経験へと転換されたことを指摘した。イザヤはウジヤ王が死に、文化が退廃した世の中で霊的な揺り動かしを経験し、そこに主が目の前に現れ、イザヤに新鮮なビジョンが与えられた。
現代の世界においても、神様が地を揺り動かし、主が旧約の時代の使者としてイザヤを必要とされたのと同じように、主に仕える人たちを必要とされていると指摘、「この世界にイエス・キリストより素晴らしい方はおられません。私たちひとりひとりが聖なる宮です。イエス様はその人生の課題、目的、動機において御言葉に絶対的に純粋な聖なるお方であり、そうであるがゆえに、イエス様に従う人たちにも聖性を求めておられます。預言者イザヤさえも、他の罪深く汚れた者たちの中にあった犠牲者だったのではなく、イザヤも同様に罪人であり、そうであったからこそ、セラフィムが彼の口に触れることでイザヤの不義が取り去られ、罪が贖われました。私たちも同様に罪人であり、今このときに私たち自身の罪性を点検してみる必要があるのではないでしょうか。神様の御心よりも自分の思いを優先する姿、神様に感謝する心よりも他の思いを優先する姿、聖書の御言葉を読むのを怠り、神様の約束を不信する姿、失われてしまった人たちへの関心を示さず、祈りに時間を費やさない姿、福音を他者と共有する機会を逃し、自分自身が何か特別な者でもあるかのように偽善者のように振る舞う姿、偽りを述べたり、他者を罵ったり、怒りの感情をあらわにしたり、噂話や、モラルに欠けた行為を行っていた姿がないでしょうか?」と問いかけた。
アン氏は 「世界が激しく動かされている中、主の御前に罪を告白し、信仰によっていと高き方、十字架につけられた復活された主の御下に人々がこの時に戻って行くことができますように。主が『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう』と言っておられたところ、イザヤが『ここに、私がおります。私を遣わして下さい』と名乗り出ました。私たちも同様に『罪人ではありますが、私を用いてください。遣わして下さい』―これが挑戦です。このような重要な時に、神様は人々を求めています。イザヤのように、主に仕えるものとなってください。イザヤはそのようにして、旧約聖書で最大の預言者となりました。そのようなイザヤをこの世の民たちの中で求めています。そのように主に遣わされるものとなってください。十字架に戻り、悔い改めてください。すぐに主と顔と顔を見て交わるようになるでしょう」と呼びかけた。
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