しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。(テサロニケ人への手紙第一5章4節)
テサロニケ人への手紙第一は西暦50年ごろ、パウロがコリントに滞在していた際、かつて信仰に導いたテサロニケ(コリントの北方約450キロ)の教会の信徒たちを励ますために書いたとされています。
パウロはテサロニケの教会をいつも気にかけていましたが、マケドニアからパウロの元に戻ったテモテから、テサロニケの教会の人々が信仰に根差し、互いに愛し合う生活を送っていることを伝え聞き、心より感謝しています。
また手紙の最後には、イエス・キリストを信じて救いを得た者は、既に暗闇の中にいないことを熱心に伝え、彼らがあらゆる苦難に耐え、主の再臨に備え、ますます主の御旨に沿った生活を送れるように励ましています。
信仰によって暗闇が消え去る
悪魔(サタン)は、人が神様の御旨に沿って歩めなくなるように、巧妙に訴えてきます。人は生きている限り罪を犯す(的外れの人生を送る)ものですから、悪魔は、その罪を根拠に攻撃し、私たちを暗闇に追いやります。
私たちが「死」を迎えるのも、また、充実した人生を送れなくなるのも、そもそもの原因は罪です。私たちは罪に抗っても、自力で乗り越えることはできません。神様の祝福から遠ざかり、暗闇の中で悪魔の攻撃を受けるようになります。それは多くの場合、耐え難い苦しみになります。
あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり・・・(エペソ人への手紙2章1節)
と書いてある通りです。
しかし、たとえ私たちがこのような暗闇の中にあっても、イエス・キリストを信じる決心をするなら、神様は真実な方ですから、暗闇は瞬く間に消え去り、神様の光に照らされ、希望と愛があふれる、充実した人生に変えられます。それは、神様からのプレゼントとして無条件に与えられるのです。
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して、価なしに義と認められるからです。(ローマ人への手紙3章24節)
弱さの中に神様の御業が現れる
クリスチャンであれば、上記のような不思議な体験をするものですが、私たちがエンディングの弱さに寄り添うとき、それまで信仰を持っておられなかった当事者や家族が、短い時間の中で同じような体験をされていくのに遭遇します。
彼らは、聖書やイエス・キリストに関する知識がほとんどないのですが、「死」を目前にして弱さの極限にあるため、信仰の扉が容易に開いていくような気がします。これまで多くの方が信仰に導かれていきました。
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(コリント人への手紙第二12章9節)
このような経験から、最近は葬儀の生前相談が入る際、全ての相談者に生前から牧師を紹介し、牧師の訪問や電話を受けてくださるようにお願いをしています。
ありがたいことに、このような働きの価値を評価し、積極的に応えてくださる牧師が日本の各地に数多く備えられています。また、相談者の側も大変つらい状況の中、牧師との接点を喜んでくださる方が多くおられます。
多死社会を迎え、多くの方が「死」を目前にして、弱さの極限に追いやられています。日本社会は牧師がエンディングに寄り添うことを求めているように思います。
キリスト教信仰に好感を持っておられた家族
先日葬儀を行った女性(故人)は、生前にキリスト教信仰に好感を持ち、日頃から家庭の中で、そのことを家族に伝えておられました。体調が悪くなり、余命宣告を受けた際、娘様がお母様のキリスト教葬儀を希望され、弊社に生前の相談を下さいました。
かなり逼迫(ひっぱく)した状況であることが分かりましたので、すぐに地域の牧師を紹介し、電話で会話をしてもらうことにしました。紹介した牧師は、これまでにこのような場を何度も経験され、神様の御業を体験してこられた方でしたので、神様の導きを信じ、心を込めて寄り添ってくださったのでしょう。
娘様は、電話の会話の中で状況を詳しくお話しされ、お母様の病床訪問と病床洗礼を希望されました。本来、洗礼は本人の信仰を確認して行うべきですが、召される直前の場合、意識がないこともあり、それまでの状況をご家族から伺い、洗礼を授けることがあります。
今回も、キリスト教信仰に好感を持たれ、そのことをよく知っておられる娘様からの依頼でしたので、牧師も洗礼の準備をして病床訪問に対応してくださることになりました。
信仰の扉は開き、神様の祝福が届く
ところが、そのような導きを得た直後、お母様が召されたとの連絡が入りました。神様が洗礼のチャンスを与えてくださったことを喜んだばかりでしたので、大変残念に思いました。お母様の入信と洗礼を希望された娘様のことが大変気になりました。
数日後、洗礼の依頼を受けた牧師が葬儀の司式に当たりました。葬儀の後、火葬中も時間をかけて遺族に寄り添ってくださったようです。収骨が終わった段階で牧師から連絡が入りました。
大変良いお別れの時となり、ご家族と共に天国を仰ぎ見ることができたようです。キリスト教信仰にずっと好感を持ちながら、信仰への決心に導かれなかった家庭でしたが、お母様のエンディングを通し、確かに信仰の扉が開いたように感じています。
大切な方を失い、悲しい別れの時だったと思います。しかし、残されたご主人(故人の夫)が、自分の葬儀の時にも司式をお願いしたいと牧師に申し出てくださいました。神様の祝福は、小さな信仰の扉から、あふれるほどに届けられたことでしょう。
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