先日、相次いで召された両親の墓前に家族親族が集まり、記念会(墓前礼拝)を行いました。天候にも恵まれ、両親を通して神様から与えられた祝福を受け継ぐ貴重な時になりました。
私の両親は生前、キリスト教になじみがありませんでしたが、先祖の宗教(仏教)にそれほどこだわりがなく、召された際にはキリスト教式葬儀で見送ることができました。
いったんキリスト教式で葬儀を行うと、その後の納骨式や記念会の場は、家族親族の心を合わせる貴重な祈りの時になり得ます。皆の気持ちを束ねた言葉を選び、声に出して祈ることで、祝福が確実に広がっていきます。
祈りの言葉を表現できない日本人
このような宣教効果の期待できる祈りの時ですが、一般的な日本人は、心の内面にある祈りの言葉を表現することが苦手です。そろって墓参りに来ても、神社に参拝しても、黙祷するだけで終わることが多くなります。
日本人は、祈りの大切さを十分に感じていますが、歴史の中で、信仰心を表現しないことを学んできたように思います(第1回参照)。日本社会においては、信仰のある家長であっても、家族の前で声に出して祈るのは難しいかもしれません。
特に未信者が多い家族の場合、各人の気持ちに配慮し、分かりやすい言葉を選ぶことが大切になります。祈りを導く者にとって、このような気遣いが増えると一層ハードルが高くなってしまいます。
御霊によって祈り続けるなら
私は55歳で前職を早期定年退職し、全寮制の聖書学校に入り、3年間、若い献身者たちと共に訓練を受けました。この間、多くのことを学びましたが、中でも、この年齢になって常に祈る習慣が身に付いたことは、その後の人生が大いに祝福される礎になりました。
聖書学校の生活は、祈りが全てのプログラムに満ちています。いきなり大勢の前で祈ることも度々求められますので、常日頃から祈りの言葉を心に蓄えるようになりました。結果として、日常的に祈り続ける習慣が身に付いたように思います。
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。(エペソ人への手紙6章18節)
この聖書箇所は、悪魔に立ち向かうための霊的な備えを勧める文脈の中で記されています。私たちは悪魔の攻撃に常にさらされていますから、御霊によって祈り続けることで、勝利の人生が与えられ、人生の節目における祈りの言葉も備えられるようになるのでしょう。
地域教会の牧師が祈りを導く時代
ブレス・ユア・ホーム(株)では、未信者や教会を離れた信者からキリスト教式葬儀の司式を依頼され、全国の連携する牧師に対応をお願いしています。葬儀を依頼された遺族の中には、その後の納骨式や記念会の司式を同じ牧師に依頼される方がおられます。
中には、毎年続けて依頼してくださる方もいて、地域教会の牧師とのつながりが続いています。導かれて教会に集われる方や、新たに信仰を持たれる方も起こされています。
やがて、このような働きが拡大し、地域教会が地域の葬儀文化を担うようになると期待しますが、そのあかつきには、御霊によって祈り続ける多くの牧師たちが、地域住民に寄り添う祈りの言葉を携え、全国に祝福を持ち運ぶ時代になるでしょう。
そして、家長が祈りを導く時代へ
このように、地域教会の牧師が地域住民のエンディングを支えるようになると、さらに次の時代には、それぞれの家庭の家長が信仰を持ち、家族親族の祝福のために自ら祈りを導くようになると思います。
故人や家族親族のことをよく理解する家長の祈りは、より大きな共感を得て神様にささげられ、神様の祝福を受け継ぐ確かな機会になるでしょう。
もちろん、納骨式や記念会だけでなく、家族親族の中で御霊に導かれた祈りが日常的にささげられ、日本宣教は大きく前進し、日本社会は神様の祝福で満ちるようになるでしょう。神様の御業が、愛する日本の各地で豊かに現れますように・・・。
聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。(詩篇134篇2、3節)
◇