ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13:1〜5)
この地上には、2つの道が存在しています。一つは滅びに至る、地獄への道です。もう一つは永遠のいのちに至る、神の国への道です。イエス・キリストが地上に来られて、この神の国へ至る道を十字架によって完成してくださいました。感謝をもって、神の国への道を歩んでまいりましょう。
さて、上記の聖書記事の時代、ユダヤ人の文化では祭事をするために、年に数回エルサレムを訪れます。「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」が三大祭りとなり、多くのユダヤ人がいけにえとなる動物を携えてエルサレムに集まります。
今回の聖句は、こうした祭事の時に現実に起きた出来事です。当時はローマ帝国がイスラエルを統治しており、ピラトという人が総督を務めていました。ガリラヤ地方から祭事のためにエルサレムに来た人たちが、おそらくローマ帝国に対する何らかの罪を犯し、処刑されてしまったのかもしれません。そしてそれを見た人々は、災難を受けたのは彼らが罪深い人たちだったからだろうと言っていたのです。ところがイエスはそうではないと言われ、あなたがたも悔い改めなければ、つまり滅びに至る道を変えないのであれば、皆滅びてしまうと警告されました。
もう一つは、エルサレムの中にあるシロアムの塔の事故で18人の人が死んだ事実を取り上げ、「彼らがエルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか」と問いかけています。そしてここでもイエスは、「彼らが特別ではない。あなたがたも滅びに至る道を変えないなら、同じように滅びます」と言われています。私たちは、このイエスの警告の意味をきちんと理解しなければなりません。
聖書には、人の肉体のよわいが定められています。
そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢(よわい)は、百二十年にしよう」と仰せられた。(創世記6:3)
創世の後の時代、主は霊を人の肉体に永遠にとどまらせないようにしようと仰せられ、120年の期限を設けられました。ここには、主の大きなあわれみがあります。善悪がある中で永遠に生きるのは常に苦悩が伴うからです。ですから主は、地上の生活に120年の制限を設け、すべての人が望んでいる「善だけの世界」を用意してくださいました。そしてそこに行くために悔い改めをするよう求めておられます。
「悔い改める」ということばの本来の意味は「方向転換」です。間違った道を正しい道へ変えることです。ここで注意したいのは、主は私たちに謝罪だけを求めているわけではないということです。その道を悔いて滅びゆく道を歩むのをやめること、方向を転換し生きるための道を選ぶことを求めておられます。これが本来の悔い改めの意味です。その意味をはっきり理解していないと、神から与えられる良いものを逃してしまいます。
例えで見てみましょう。目の前に谷底に至る道があるとします。しかし、実際にはそのように見えません。道の途中、あるところで善良な人に出会い、「この道を真っすぐに進むと崖に落ちて死にますよ」と警告を受けます。「ご親切にありがとうございます」と感謝を述べ、注意をしながらも道を変えずにそのまま歩み続けたとします。
警告するために、主は善良な人を何回か遣わしてくださいます。しかし道を変えなければ、いつしか壊れた橋にさしかかり、突然谷底に落ちてしまうのです。それは滅びに至る道だからです。ですから私たちは、聖書から促しを受けて180度方向を変え、生ける道に向かう必要があるのです。
もう一つの比喩です。人が太陽を背にして歩んでいると、自分の影を前にして進むことになります。影のある、暗い道を歩み続けます。どこでつまずくか分かりません。これは霊的に盲目の道といえるでしょう。何につまずくか、いつ倒れて災害にあうかも分からない。滅びに至る道です。
ですから、善良な人から注意を受けたらすぐに180度方向を変え、太陽の光を受けて歩むようにします。それは光の道なので、明るくつまずくことがありません。これが霊の目が開かれた人の道であり、神の国へと日々近づいていく歩みになります。
神の国への道について、イエスは12弟子の一人であるトマスに、次のように語っています。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:3〜6)
ここで、主イエスご自身が道であることを宣言されています。主イエスは3日目のよみがえりの後、40日間弟子たちに神の国のことなどをお話しになり、それから神の国へ行かれて、私たちのために家を備えておられるのです。
ここでいう「場所」とは「家」のことです。準備ができたら再び戻ってきてくださり、私たちを天の家に迎え入れてくださいます。「わたしの行く道はあなたがたも知っています」とイエスは言われていますが、これは神の国、天の父の国へ行く道を指しています。トマスはどこに行くのか分からずに、「どうしてその道が私たちに分かりますか」と問いかけました。
するとイエスは「私が道であり、私を通して父のみもとに行くのです」と答えられました。信仰者は、主イエス・キリストの十字架の前で間違った道を告白し、十字架上で自分の罪にイエスと共に死んでよみがえることによって、義人とされ、神の国へ至る道を地上生涯歩み続けることができます。
悔い改めて罪から離れる道。イエス・キリストと共に歩む道こそが、いのちに至る道となります。ぜひ、詩篇119篇を読むことをお勧めします。ここでは全編が「道」に関してつづられています。
以上のことから主が言われた通りに悔い改めなければ、間違った道を歩み続け、どこかで滅びてしまいます。この章の冒頭の聖句の通り、すべての人に間違いはあります。この間違いを改めない限り、人は120年の地上生涯の中でいつかは滅びて、神の国へ行けず、悪魔と共に地獄で苦しむことになってしまうのです。これは絶対に避けなければならない道であり、聖書に記されている厳粛な教えです。もう一度言いますが、絶対に避けなければならない道なのです。
イエス・キリストに出会うと、永遠のいのちに至る道を手にすることができます。しかし、それは新生のスタートラインに立ったということであり、神の国に至るその日まで、私たちはその道を歩み続けなければならないのです。
では、その道は具体的にどのような道なのでしょうか。それは一言で言えば「信仰の道」です。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。狭い門から入りなさい。滅びに至る道は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:12〜14)
イエス・キリストに出会うというのは人生において最大のターニングポイントです。これを逃したら天国には行けません。どのような宗教や慈善をしても行くことはできないのです。まずイエス・キリストに出会うことが唯一の条件。これは狭い門です。滅びに至る門は大きく開いており、広いとも書いてあります。ほとんどの人がそこから入っていると主は悲しんでおられます。狭い門、十字架の贖罪の門を通らない限り、いのちに至る道に入ることはできないのです。ここでは、イエス・キリストに出会ったことを前提として次のステップに行きますが、これからは愛の歩みになります。
何事も自分にしてもらいたいことを人々に行えるように。これが、愛の歩みの基本的な考え方です。ただし、倫理道徳的に正しく、その人の益となること、その人の心の成長につながることが前提です。これを神のみこころといいます。神のみこころに沿って自分がしてもらいたいことを他人にもしてあげてくださいというやさしい神の御声です。
例えば、もしある人が酒乱だとしましょう。自分がお酒が好きだからといって多くのお酒を施してあげたら、その人の人生はますますひどくなります。自分にしてほしいからといって、人にしてあげることがすべて正しいとはいえません。そこには知恵が必要です。その人その人に応じて必要を行うことが神のみこころになります。
その愛の道を主イエスの御霊と共に歩んでいくわけです。自分だけではなく、御霊と共にというのがポイントです。では、御霊のご性質を知りましょう。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(2テモテ1:7)
御霊は悪を退ける力であり、人々を無条件で愛する愛そのものです。慎みとは、秩序という意味です。御霊は神の国の秩序、神の国の生き方を知っておられる霊だということです。この御霊が信じた私たちに注がれています。ですから、御霊と共に私たちは愛の道を歩んでいくわけです。そうはいっても、神に出会ったからといって常にその道を歩めるようにはならないかもしれません。横道にそれてしまうこともあるでしょう。そのときこそ、悔い改めることが必要なのです。
横道にそれたときにはサインがあります。例えば、ある人にはちょっとした病気のサイン、ある人にはちょっとした経済的な困窮、ある人にはちょっとした災い、これを聖書ではのろいと言っています。そういうサインが出始めたら、ピンチをチャンスと捉えて、これは何か道が違っているシグナルだと考えて、聖書のことばと自身の生活を鑑みる必要があるのです。一つ前の「赦(ゆる)し」の章は、まさに参考にしてもらいたいところです。
では、私たちが悔い改めたときに、神がご用意してくださっているものは何でしょうか。
あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:8〜10)
新約聖書全般の手紙は聖徒、つまりクリスチャンの先輩方が実体験に基づき記事を書いています。ですからこれらの手紙は非常に有益で、私たちのための手紙であると言ってもよいものです。手紙を読むといろいろと教えられ、諭され、私たち自身の歩みも正されていきます。イエスの教えが弟子に伝わり、弟子たちの手紙を通して、私たちも弟子のようにイエスの道を歩むことができます。
間違っているなというサインが出たときには、手紙の中で私たちに語られていることを探し出して適用し、私たちが神のみこころに沿って悔い改めれば、聖書に書いてあるように何の害も受けないという神の約束を受け取ることができるのです。神のみこころに沿った悲しみは、悔いのない救いに至る道、つまり滅びではない、いのちへ至る道を生じさせます。闇に向かっていた道を捨てて、もう一度光の道を見いだすことができるのです。
一方、世の悲しみは死をもたらすと書かれています。この章の冒頭の聖句にあったように、「あなた方も悔い改めなければすべて滅びます」という主イエスのことばが、これで理解できるのではないでしょうか。
正しい道を歩む人のことを「義人」と呼びます。義人がどのように生きるかについて、聖書には次のように書いてあります。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1:17)
福音というのはイエス・キリストの十字架と復活から来るすべての良き道の諭し、愛の道の諭しです。そのように読み替えれば分かりやすいでしょう。そこには神の義が啓示されていて、その義の道は信仰に始まり、信仰に進ませると書いてあります。これこそが義人の道です。
ですから、義人は信仰によって生きる、信仰によって歩むと書いてある通りです。私たちは良い道を歩み続けて、神の子どもとして人々に祝福を流し続ける者でありたいですね。
最後に、悔い改めについて素晴らしい詩篇がありますので、先人の信仰者であるダビデから学びましょう。
幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。
主が、咎(とが)をお認めにならない人、
その霊に欺きのない人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、
私の骨々は疲れ果てました。
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、
私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
「私のそむきの罪を主に告白しよう。」
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。
あなたにお会いできる間に。
まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り、
救いの歓声で、私を取り囲まれます。(詩篇32:1〜7)
ここにあるように、信仰者ダビデは罪を神に告白しなかったときは、彼の骨が疲れ果てて骨髄が渇ききったと書いてあります。生気が消え失せている状態です。ところが、これを告白したときから、一気に救いの喜びを歌う状態に変わっています。
「大水の濁流」というのは、いわゆるいろいろなのろいを指します。悪魔たちが持って来る災いのことです。これが一瞬にして十字架に贖罪されるので、神に赦されてご加護の中に入る喜びに変えられるのです。
そのためには告白が大切です。十字架の前で主イエスに向かって告白するのです。
自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。
それを告白して、それを捨てる者は
あわれみを受ける。
幸いなことよ。
いつも主を恐れている人は。
しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(箴言28:13、14)
ダビデ王に教育されたソロモン王が神の知恵によって語っているといわれる「箴言」の中で、このような悔い改めの道が備えられていることを知った私たちは幸いな者です。ぜひ日々の間違いを神に告白し、赦しときよめを受け続け、救いの歓声とともに喜びながら、この地上の生涯を歩んでまいりましょう。
彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエル(著者注:神の王子の意)の家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33:11)
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(1ヨハネ1:7〜10)
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奥田英男著『祝福を受ける人のBibleノート』 2016年11月1日初版、ミリオン・スマイル、定価1800円(税別)
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