「思い起こせば、恥ずかしきことの数々。今はただ、後悔と反省の日々を過ごしております」。「男はつらいよ」の寅さんの名せりふです。自分の人生を振り返るとき、こう思わない人はおそらく誰もいないのではないかと思います。「あの時、ああすればよかった」「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」「もし、あんなことがなければ」等々。
しかし人生において、遠ざかることは決して悪いことではありません。特に自分が嫌いだった人、また、嫌われてしまった人から自然に遠ざかっていることは、恨みや後悔を一つの思い出に変えることができるからです。また、人生で気になる人がいても「縁があれば、また会えることもあるだろう」「あの人とは良き縁だった」ぐらいでいた方が、気持ちが楽になります。
ところが人生には、そうはいかない場合もあります。「自分がこうなってしまったのは、昔あんなことをしたからだ」「こんな病気になってしまったのは、あの時の罰なのだ」等々。こうした自責の念にかられている人は大勢います。自分の身に起きた不幸の原因を周囲の因果関係と結び付け、宿命論的に自分で自分を断罪してしまっているのです。
この因果応報という考え方は、仏教の輪廻(りんね)思想から来ているのですが、仏教に対する信仰があるないにかかわらず、こうした価値観は世の中に広く浸透しています。確かに、結果のあるところには必ずそれに至る原因があります。しかしその原因が、先祖から来ているとか、過去に自分が犯した罪にあるということはないのです。
この因果応報について、聖書ははっきりと否定しています。「この世に生まれつきの盲人がいるのはなぜなのか」と問う弟子たちに対して、イエスはこう答えています。
弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネによる福音書9章2、3節)
とかく人は、人生で何か問題が起こると、その原因を因果応報に求めようとします。ですが、もし今のあなたの不幸の原因があなたの罪や過失にあるとするなら、とっくに死んで然るべき人がのうのうと生きているという現実を説明することができません。
では、「神の業が現れるため」というイエスの答えはどういう意味なのでしょう。イエスはここで、この盲人が今の状態から回復し、感謝する人生へと変えられると言っているのです。この盲人は最初、自分の身に起きたことがよく理解できないでいましたが、最終的にはイエスの証し人へと変えられました。つまり、イエスの関心は私たちの過去にあるのではなく、私たちの将来にあるのです。
私たちはこの不条理だらけの人生の中で「神がいるのならなぜ? 神が愛ならどうして?」と何度問いかけてきたことでしょうか。しかし、この質問に対して「なぜ?」ではなく「何のため?」と問うならば、私たちは一つの答えを見いだすことができます。それは「同じ苦しみの中にある人たちを慰めるため」です。実は私たち人間は、神に対して人生を問うのではなく、逆に神から人生を問われている存在なのです。
人は、自分の人生の中で起きた出来事によって人生が変わってくると思っていますが、そうではありません。人生で起こってきた出来事に対して、どう対処したのかによって変わってくるのです。事実、あなたにとって最も重要な働きは、あなたが今までの人生で最も苦しんできた経験の中にあると言っても過言ではないでしょう。
例えば、アルコール中毒から解放された経験のある人は、同じ問題で苦しんでいる人たちの最も良き理解者でしょうし、障害者の子どもを持った親以上に、同じ問題で苦しんでいる親の気持ちに共感することはできません。ですから、もしあなたの周りに自分の経験した同じ苦しみの中にいる人がおられたら、あなたは喜んで自分の経験をその人たちと分かち合うべきです。
成功談である必要は全くありません。今まで自分が経験してきた失敗を、ありのままに伝えるだけで、同じ苦しみの中にいる人たちの慰めになるからです。自分の力を誇るより、自分の弱さを正直に伝えることの方が、どれだけ聞く人の励みになるでしょうか。これこそが人生最高のリサイクルなのです。
私たちが苦難に遭うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。また、私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであり、この慰めは、私たちの苦しみと同じ苦しみに耐える力となるのです。(コリント信徒への手紙二1章6節)
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