あなたが人生で、一番大切にしているものは何でしょうか。健康、家族、お金、仕事、友人、若さなど、人によって答えはさまざまでしょう。確かにこれらのものは、人生を構築するためのとても重要な要素ではあるのですが、人生の最優先にすべきものではありません。
なぜなら、お金が人生の目的だとすると、預金通帳の残高によって、幸せになったり、不幸になったりしてしまうわけですが、預金残高には、これで十分だという基準はありませんから、それは結局、周囲との比較でしかありません。また、お金を第一とする人生には道徳感が欠如し、長期的展望に立った人生設計や、世のため、人のためといった人生観が持てなくなります。お金のために自分の身を売る行為は、結果的に自分の人生を破滅させてしまうのです。
仕事のために自分の家族や健康を犠牲にしている人は大勢います。仕事が順調なときは、それこそ生きがいの頂点にいるような思いになるのですが、いったん行き詰まると急に人生に対して懐疑的になり、仕事に対する熱意も喪失してしまいます。特に日本社会では、自分が所属する会社を通しての人生観しか持つことができないという環境があるせいか、人生に対する視野が非常に狭くなります。会社における人間関係は勤めを終えればほとんど切れてしまうように、仕事はあくまで人生の手段であり、目的にはならないのです。
自分の子どもを人生の中心に置いてしまうと、子どもの出来不出来によって幸せになったり、不幸になったりしますが、これも結局、周囲との比較でしかありません。また、子どもを通してでしか人生を経験・選択することができなくなると、親子の依存度が高くなり、子どもが親の代償行為になってしまいますと、結果的に、子どもは親を憎んで離れて行くか、親子カプセルのような不健全な関係に陥ってしまいます。子どもの人生と自分の人生とは、分けて考えなければなりません。子どもは親の所有物ではなく、神からの預かりものだからです。
日本の社会は、スポーツ選手にしても、芸能人にしても、特出した才能を持つ人をすぐに神格化させてしまう傾向があります。こうした人間至上主義は、常に周囲の意見や評価に過剰反応してしまい、自分の存在を維持するために、過度に嫉妬深くなり、支配的、または従属的になったりします。また、間違った自己犠牲をしたり、それを相手に強要するということも出てきます。
自分が理想とする政治思想やイデオロギーを人生の中心に据えてしまうと、自分の主義主張に合わない人たちを見下し、高慢で独りよがりの人間になってしまいます。世の中を自分側の善と、自分に対立する側の悪とに二分し、自分が正義であるという前提でしか、物事を捉えられなくなるからです。独裁主義国家による粛清やジェノサイドは、自分たちと同じ人種や、同じ主義主張に従う者だけが大切な存在であり、それ以外の者は敵であるという、人間の価値を人間が勝手に判断し、それを実行した結果による惨劇です。しかし、聖書はこう語ります。
「あなたは私の目に貴く、重んじられる。私はあなたを愛する」(イザヤ書43章4節)と。あなたとは、地球上にいる全ての人のことで、人種や能力、思想とは一切関係ありません。つまり、私たち一人一人は神にとって貴い存在なのです。人を創造された神が貴いと言っているから、人の存在は貴いのであり、人が人に対して、誰が貴くて誰が貴くないなどと勝手に決め付けること自体、間違っており、そんな権利はどこにもないのです。
では、人生で最も大切なものは命でしょうか。もしそうだとすると、聖書に登場する殉教者たちの人生は間違っていたことになります。命より大切なもの。それは、神がその人に与えられた「使命」です。「命」とは、あなたに与えられた使命をこの地上で果たすために与えられた「時間」のことであり、「幸せ」とは、あなたがその使命に準じて生きているときに、おのずと湧き上がってくる「充足感」のことなのです。
あなたがいて、目的があるのではありません。最初に目的があり、そのためにあなたがデザインされ、創造されたのです。ですから、神があなたに与えられた使命をあなたが遂行するまであなたの命(時間)は継続し、そしてあなたの死は、あなたの生の完了を意味します。つまり、死は挫折でも、損失でも、悲劇でもありません。この世の人生が一度限りという現実が、あなたの人生に素晴らしくも、深刻な責任と意味を生じさせているのです。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。(コリントの信徒への手紙一13章13節)
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