世の中、どのようなことにも例外というものがありますが、世界万国共通して絶対に例外のないことが一つだけあります。それは、生きとし生けるものはいつか必ず死ぬということです。この誰もが一度は通らなければならない死について、怖くないという人は誰もいません。なぜなら、死には人生の平安を阻む3つの要因があるからです。
1)死後、自分がどうなるか分からないから。
2)愛する人たちと別れなければならないから。
3)自分の人生が中断させられてしまうから。
有史以来、人類が悩み続けてきたこれらの問題に対してすぐに答えが出せるようなら、誰も苦労はしません。かといって、終活中の身で、学生時代と同じことを考えているわけにもいきませんので、今まで考察してきたことを少し整理したいと思います。
まず、一つ目。もし、この世が全てであるなら、それぞれ自分に合った宗教や人生観、ライフスタイルを選択すればそれで何の問題もありません。ですがもし、死後の世界が本当にあるとするならば、それは個人的推測の範囲で終わっていい話ではありません。なぜなら、この点が明確にならない限り、人は心からの平安を得ることができないからです。
多くの人は、たとえ天国と地獄が存在したとしても、自分は天国に行けるだろうと軽く考えています。しかし、この推測には何の根拠もありません。死後の世界観については、宗教によって異なるのですが、仏教、イスラム教、ユダヤ教、またヒンズー教など、この世のほとんどの宗教には一つの共通点があります。それは、「天国はそうたやすく入れるところではない」という点においてです。どの宗教においても、人が神の国に入るためには、多大な犠牲と修行が要求されるのです。
一方、キリスト教は前半の部分においては他の宗教とほぼ同じなのですが、後半が全く異なります。それは、人がいくら努力をしたところで神には決して近づくことはできないということが、旧約聖書によって明らかになったからです。そこで、神ご自身が地上に降りて来てくださり、人が天国に入れない醜い部分(罪)を全て負って、その身代わりとなって十字架上で死んでくださり、3日目に復活された。それを信じ、受け入れた者には、無条件で天国への門が開かれることになった。それが新約聖書です。この話を聞いて「そんな虫のいい話があるわけがない」と思われる人もいるかと思いますが、こんな虫のいい話でなければ、人が天国に行ける方法など他にはないのです。
二つ目、私は仕事で家族と長い間、米国と日本で別れて暮らしていました。妻子との空港での別れは、何度経験してもつらいものでした。しかし、住んでいる国は違っても、互いにちゃんとそこで生活しているわけですから、また再会できることが分かっています。クリチャンにとっての死は、それと同じです。もしあなたに、先に亡くなられた家族がいたとしても、その人は、消えたわけでも、いなくなったわけでもありません。神が住んでいる場所で今も生きていて、いつか必ず、あなたと再会することができるのです。
三つ目、自分にはいまだやり残した仕事がある、これからもっとやりたいことがある。にもかかわらず、その完結を見る前に死ななければならないことは、本人はもちろん、残された家族にとっても何と無念なことでしょうか。実際、芸術や文学の分野で天才といわれた人たちの多くは、未完の作品を残しています。
例えば、モーツァルトの「レクイエム」、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、ミケランジェロの「ピエタ」、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』等々・・・。ところがこれら未完であるはずの作品が、彼らの完成作品に勝るとも劣らぬほどの感動を後世に与え続けているのはなぜでしょうか。それは、これらの作品が未完ではあっても、不完全ではないからです。
実は、聖書に登場する人物をこの世的な観点から見てみると、いわゆる人生の成功者といえるような人は誰一人いません。例えば、モーセは約束の地に入ることができず、ダビデは神殿をつくることができず、パウロは念願のスペインに行くことができませんでした。イエスの弟子たちに至ってはほぼ全員、殺されてしまったのです。
しかし、神は彼らを見捨てたわけでも、彼らの前にいなかったわけでもありません。確かに彼らは、自分にとっての最善は果たせなかったかもしれませんが、神が計画された人類救済計画の一役を担い、世界の最善、人の最善、神の最善のために自らの使命を果たしたのです。たとえ、人間の目には未完に見えたとしても、その評価を決めるのは、人ではなくその人を創造した神です。つまり、神の作品である私たちの人生は、決して未完成に終わることはないのです。
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。(ヘブライ人への手紙12章11節)
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