死生学の権威であるアルフォンス・デーケン教授(※)の講演会が上智大学で開催されたとき、「死について考える」という看板が校内に立てかけられました。ところが同日、同じ敷地内の教会堂で結婚式が行われていて、「このおめでたい日に、死とは何事か!? 常識外れもはなはだしい!」とクレームが入り、この看板は撤去されてしまいました。
こうした死をタブー視する日本社会に対して、「死への準備教育」を提唱されたデーケン教授は、厚労省にホスピス治療の推進を求めた際、「日本では、がんは告知しないことになっている」と強硬に反対されたそうです。
超高齢化社会の日本メディアにおいても、死は禁止用語であり、日常会話でも、牧師の説教でも死は禁句で、それについて取り上げようものなら「縁起が悪い!」と非難されてしまいます。つまり、多くの人は、死を日常生活とは切り離してふたをし、まるで人生には死などないかのように振る舞っているのです。それは、死という現実を知ってはいても、それに対してどうすることもできないからです。
そうした日本人の死に対する態度には、大きく3つあります。
1.「そんな縁起の悪いことは考えたくない」
2.「そんな証明できないことを考えても仕方がない」
3.「人は死んだら全て無になる」
結局、1と2は現実から目を離した逃避であり、3は仏教の輪廻(りんね)思想から来ています。それは、涅槃(ねはん)という無の世界に入ることが仏教の最終目標だからです。ところが、人は煩悩(キリスト教では罪)がある限り、涅槃(キリスト教では天国)には入ることができません。聖い霊の世界では、自分の中の煩悩(罪)が全てあらわになってしまいますので、そこにはいられないのです。
そこで人は、輪廻転生を繰り返しながら、天国には入れない醜い部分(自我・煩悩・罪)がなくなるまで修行することが求められます。実際のところ、人間的な方法論としてはこれ以外にないのです。つまり「死んだら無になる」とか「自分は天国に行けるだろう」といった推測は、賃貸の入居条件を入居する側が勝手に決め付けてしまっていることと同じで、常識的には通用しません。
私のような怠惰な人間は、厳しい修行など自分には無理なことが最初から分かっていますので、「信じる者は救われる」というキリスト教を喜んで受け入れるのですが、真面目で勤勉な日本人にはこの「無条件=恵み」の意味が分かりません。日本社会が完全にギブ・アンド・テイクの報いの構造であるため、「信じる者は救われる」が「タダより高いものはない」に転換されてしまうからです。
いずれにせよ、人が天国に行くためには、自我がなくなるまで修行を重ねる仏教的アプローチか、信じる者は救われる聖書的アプローチかの2つしかありません。人間の知恵によっては死後の世界を証明することができないのですから、できないならできないなりに、最も真実性・信頼性が高く、自分にとって現実的なものを選んでおけばよいのです。分からないから、忙しいからといって、放っておくのが一番良くありません。なぜなら、死は誰にでも確実に、しかも多くの場合、突然訪れるからです。
結果的に、来世を否定し、現世にしがみついて生きるより、来世はあると信じて生きる方が、現生をより良く生きていくことができます。人生、生きるということは死ぬこと。死ぬということは生きること。死があるからこそ、人は生を全うすることができ、人生に意味を与えられる。これが正しい死生観であり、人生観なのです。
人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。 人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。(マルコによる福音書8章36、37節)
※ アルフォンス・デーケン(1932〜2020)。ドイツ人の哲学者、イエスズ会祭司、上智大学名誉教授。「ユーモア感覚のすすめ」は日本の中学校の国語教科書に掲載された。
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