日本は世界でも有数の無神論国家ですが、その半面、日本人はとても信心深い民族でもあります。毎朝仏壇を拝み、年始めには初詣に行き、お盆にはお墓参りをする等々。つまり、信仰はなくても、信心はあるのです。それでは、人々はそこで何を祈っているのでしょうか。
1)健康で長生きできますように。
2)地震や洪水などの災いから守られますように。
3)経済的に祝されますように。
無病息災、家内安全、商売繁盛。結局、日本人の祈りは大きくこの3つに要約することができます。人々がそう祈り続けているのは、それらが満たされないからですが、この世で生きている限り、私たちの人生から問題がなくなるということはありません。また、これだけ満たされれば、それで十分だということもありません。なぜなら、人間の欲望にはキリがないからです。
私たちが、子どもの頃から持っている「望み」には4つあります。それは、
1)可能性があるないは別にして、ただの願いとしての望み(願望)
2)身のほどを超えた野心的な望み(野望)
3)本能的な欲を満たそうとする望み(欲望)
4)他人と比較して、自分にはないものを求める(羨望[せんぼう])
です。その目的はおおむね、お金、異性、地位、名誉、美貌といったものですが、それらは全て、時間の経過とともに、いつかはなくなってしまうものです。それでも人間は生きている限り、それらのものを追い求め続けます。そして人は、自分が一番大切にしているものに人生を支配されてしまうのです。
そのことを仏教では「業(ごう)」、キリスト教では「偶像」といい、それが人生を誤る原因となっているのです。ですから、仏教は望みを手放して、無になることを教えます。一方、キリスト教は望みを正しく位置付けるように教えます。つまり、願望、野望、欲望、羨望を、希望へと訂正すればよいのです。
私たちには「自分が本当にやりたいこと・Having」と「その目的を遂行するために必要なスキル・Doing」「自分がやらなければならないこと・Being」の3つがあります。それをもう一度確認しましょう。なぜなら、幸せな人とは、自分の「やりたいこと・Having」と「やれること・Doing」「やらなければならないこと・Being」が統合されている人のことであるといえるからです。
その中で最も大切なのは、人生の目的ともいえる「Being」の部分ですが、作家の五木寛之氏は『人生の目的(※)』という著書の中で、「人生の目的は、おそらく最後まで見いだすことはできない」と書いています。一見、驚くような答えですが、五木氏の見解は間違ってはいません。
また、キルケゴール(※2)は、著書『死に至る病』の中で、「死に至る病とは絶望であり、絶望とは、人間が神を無視して、神から離れていること、神との交わりが絶たれていることである」と断言しています。つまり、私たち人間は、私たちを創造された神から離れては、人生の真の目的を見いだすことができないのです。
日本語の「望む」という言葉は、本来「遠くのものを望む」という意味で、それは「お金持ちになりたい」とか「有名になりたい」といった願望や欲望ではなく、もっと永遠に続くものを望むこと。つまり、真の人生の目的とは、私たちが捜し求めるものでも、見つけられるものでもなく、神によって与えられるものなのです。
そして、神から与えられた「Being」が、私たちの「Having」と「Doing」と一致したとき、その願いは人生において必ず成就すると聖書は断言しています。「あなたの願いは100パーセント実現する」と言い切っているのは、世界広しといえど、聖書しかありません。
得られないのは、求めないからです。求めても得られないのは、自分の欲望のままに使おうと、よこしまな思いで求めるからです。(ヤコブの手紙4章2、3節)
※ 『人生の目的』 。五木寛之著。2000年、幻冬舎発行。
※2 セーレン・オービュ・キェルケゴール(1813〜55)。デンマークの哲学者、実存主義の創始者。形式主義に陥り、信仰が伴わない当時のデンマーク教会を痛烈に批判した。
◇